というのは当然靖国神社に参拝した小泉首相のことですが。最早批判されたくて参拝しているようにしか見えないよ。 一方で「中国・韓国の批判にはもううんざり」という感想を持つ人がいて、そういう人は「中国・韓国に屈しない」小泉首相や、おそらく後継者になるであろう安倍官房長官を支持しようとする。ところが、そういう人ほど「中国・韓国の反日は国をまとめるため」論を唱える傾向があって、それってまさにお前が小泉や安倍を支持する行動原理そのものじゃんとも思う。能動的な反日と受動的な反中反韓は違うってお前小泉や安倍が自分が中国・韓国から批判されればされるほどある一定の層から支持を受けるってことを見越してないはずがないじゃん(だから「誘い受け」もするわけで)。意識的・無意識的かどうかにかかわらず、外敵の存在が現政権への支持動機となっている時点で即アウトだよそんなの。そんなわけで、今回の靖国参拝を支持している人は、自
「戦争の犠牲となり、今日の日本国の繁栄の礎となった戦没者の御霊に、追悼の誠を捧げること」 に日本国民の誰ひとりとして反対する人はいない、と思います。 では、「追悼の誠を捧げる」という「意志」を、どう実体としての「行為」に表象させてゆくのか? という課題に対して、議論が分かれることになります。 即ち、「靖国神社」という施設が、「意志」を「行為」に表象させる「場」としてふさわしいのか否か、ということです。 もちろん、一宗教法人たる「靖国神社」に誰がどう参拝しようが、基本的には自由です。 ここで、「靖国神社」について考えてみます。 岩波書店の広辞苑によると、「神社」とは、「神道の神を祀るところ」と書いてあります。 次に、「祀る」を引くと、①供物・奏楽などをして神霊を慰め、祈願する②神としてあがめ、一定の場所に鎮め奉る、と出ています。 「靖国神社」とは、「国家権力の命により戦争等の国事に殉難した軍
先日、中国人の僕は初めて靖国神社に行きました。ある著名な先生の勉強会の一員として数十名の塾生達と一緒に行きました。 実は、僕は以前から靖国神社に行きたかったのです。いろいろなところでよく意見を求められているのに見たことがないため、意見が言えなかったからです。僕は自分の目で確かめないで聞いた話を信じるのは嫌な質です。 僕は亡くなった人の霊を大切にする日本の文化が好きです。実は僕の出身地の山東省も似た風習があるからです。日本の神社も好きです。渋い色と落ち着いた雰囲気は、とても東洋的で死者の霊を慰める場所としてとても良いと思います。 「遊就館」を見学してびっくり しかし、靖国神社の「遊就館」を見学してびっくりしました。軍艦マーチが流れる中、戦車、大砲、潜水艦などの武器と共に各戦争の背景、経過を詳細に解説しています。戦時ニュースも流しています。戦士の勇敢さを讃える、おびただしい量の証拠品と写真を展
さて、西洋哲学研究者の私がなぜ、靖国の問題を論じるのか。不思議に思った方もおられるのではないでしょうか。しかし、私の中ではまったく違和感はありません。 私の専門は、西洋哲学、特に20世紀のヨーロッパにおける哲学思想研究です。なかでも最も影響を受けたのが「脱構築」で知られるジャック・デリダ(今週のキーワード参照)ですが、哲学というのは過去にだれかが構築した思想を研究するのではなく、自分自身で探求するのが本来の姿のはずです。その点において、日本に暮らす私が日本固有の問題について哲学的に論じることは、まったく不自然なことではないのですね。 そもそも西洋における哲学自体も、政治や国家、戦争、歴史をテーマとしてきたわけで、私が靖国神社という日本の歴史を扱うことについても、そうした哲学の伝統と無縁であるわけではない。例えば、西洋哲学の祖といわれるプラトンの代表作である『国家』は、どんな国家のあ
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