元に服属していたサハリンのニブフが(吉里迷)が,アイヌ(骨嵬)が毎年やって来て境界を犯すと訴えたため,元軍がアイヌを攻撃する(「元史」巻2)
元に服属していたサハリンのニブフが(吉里迷)が,アイヌ(骨嵬)が毎年やって来て境界を犯すと訴えたため,元軍がアイヌを攻撃する(「元史」巻2)
モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太アイヌへの攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本の九州北部に対して行われた元寇(文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」[1]「もうひとつの蒙古襲来」[2]などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。 背景[編集] 樺太とその周辺 樺太(サハリン島)には、後のニヴフ(ギリヤーク)につながると思われるオホーツク文化(採集・漁撈を中心とする)や、アイヌが担い手だったと思われる擦文文化(雑穀農耕を含む採集生活を中心とし、土器を製作する)などの遺跡が混在しており、中世にもニヴフ・アイヌが混住していたと思われる[3]。オホーツク文化・擦文文化の終了をどの時期とするかは諸説あるが
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