底冷えする冬の京都。雪が舞う、氷点下の鴨川べりで、濡れそぼちながら、支流の水を汲んでは、本流に流している詩人がいる。 そこには、言葉は介在していない。 詩よりも詩的なものを求めて、パフォーマンスを繰り広げるカニエ・ナハ。「自分が詩的な風景の一部になりたい」と語る詩人は、言葉による詩のみならず、同世代の詩人の詩集を自らデザインして手作りし、パフォーマンスにも打ち込む。そこには、全存在を賭けて、詩を生きようとする姿がある。 東京、深川の自宅には、画集から雑誌まで、さまざまなジャンルの資料が溢れ、ダイニングのスペースまで占領している。たとえば、猫。あるいは落語。まったく関係がないものが出会うとき、そこに新しい何かが立ち上がる。そこに詩があるのではないか。 自由詩には定型がない。しかし、書き続けるにつれて、自分なりの形が生まれ、定型化していってしまう。それを破壊しないかぎり、前には進めない。その意