▽旧加賀藩士と治者交代 武家社会の終焉と国葬の誕生 このコラムが掲載される頃には、安倍晋三元首相の「国葬」も終わっているであろう。賛否両論を巻き起こした今回の国葬であるが、この概念が生まれた背景には旧加賀藩士が深く関わっている。 明治天皇は、大久保の死を深く悼み、国を挙げての葬儀が行われることになった。この段階では根拠法はなかったものの、記録を調べてみるとわずか数日の準備で実施されたようで、当時の政府のマネジメント能力は驚嘆に値する。後に国葬令が整備されることになるが、モデルとなったのは大久保の葬儀である。こうした経緯から大久保の弔いについては、“准国葬”や“実質的な国葬一号”のような言い方がされる。 実は大久保の葬儀にはもう一つの意味があった。島田の下には、明治に入って没落する旧武士階級の不満を吸収する形で同志が集まっていったが、そのネットワークは金沢で拠点とした寺の名を取って“三光寺派