もう採点は終わってしまったのだけど、東大教育学部での講義のまとめのために、メモ。 今日の日本語では「政治」という包括的な上位概念のもとに、理論政治学(システム論)・政治過程論風の言い回しを用いれば「入力input」にあたる狭義の「政治」=公共的意思決定と、「出力output」にあたる「行政」とが包摂される、という風になっている。さらにこのような「政治」の大枠は「憲法constitution」という形で与えられ、「政治」は「行政」はもちろんのこと狭義の「政治」においても、主としてそれが「立法」という形で手続きを踏んでなされねばならない、という形で、「法の支配rule of law」に服している。とはいえ「憲法」自体も不変ではなく、狭義の「政治」にはその変更可能性までもが射程に入れられている。 あるいはこの「政治」の制度的な枠組みのことを「統治government」とも呼ぶ。日本を含めた多くの
1976年生まれ。千葉県松戸市出身 ■現職 天理大学人間学部総合教育研究センター 准教授 ■専門 思想史、現代社会学 ■業績 書籍 ◇2021/08/24 小泉義之、立木康介ほか(共著).2021.『狂い咲く、フーコー 京都大学人文科学研究所 人文研アカデミー「フーコー研究」出版記念シンポジウム全記録+(プラス)』読書人.204p. ISBN-13: 9784924671485 \1100+税 [amazon]/[kinokuniya] ◇2013/09/20 箱田徹,2013,『フーコーの闘争――〈統治する主体〉の誕生』慶應義塾大学出版会.320p. ISBN-13: 9784766420661 \2500+税 [amazon]/[kinokuniya] 韓国版はナンジャン社(刊行予定) 論文 ◇2021/12 箱田徹,2021,「気候ではなく世界のあり方(システム)を変えよ――気候危機
特定の諸関係の中で、個人がある属性を持つところの主体として構成される過程、即ち「主体化」が、M ・フーコーの仕事における一貫した主題であったことは、今日ではよく知られている。さて、しかし、なぜ「主体」でなく「主体化」なのか? 「主体」になる前の「個人」とは、いかなるものか?本稿前半部では、まず、主体を何らかの操作の結果として、フーコーが扱い続けた理由を、彼の特異な思考の前提を明示することにより、確認する。その前提とは、次のものである。①主体の属性は、特定の実践上の技法の効果として生じる。②個人の〈内に〉複数の諸力が存在する。即ち、個人自体が、既に統治されねばならない複合的・政治的現象である。以上の議論を踏まえ、後半部では、「道徳的主体化の様式」に関する、フーコーの晩年の仕事が持つ意味について、考察する。重要なポイントは、フーコーが、①普遍的規範こそ道徳的主体性の基盤である、とする、西欧哲学
『相関社会科学』について 『相関社会科学』は、既存の専門領域にとらわれない、新しい学際的な社会科学研究を目的として創刊された、査読付論文誌です。1990年の創刊以来原則年1回のペースで発行を重ねてきました。優れた修士論文を提出した博士後期課程学生の研究発表のメディアとしても注目を集めています。掲載論文のなかにはこのページから全文閲覧可能なものもあります。 最新号:第28号(2019年3月) 実験報告の修辞学――19世紀後半の心霊研究と「裁判のレトリック」(松村一志) 18世紀フランスの「社会性」概念にかんする思想史的研究――利己心・商業・社交(西田尚輝) 奨学金制度の変遷と施策の再検討――返還に対する負担の重さと「奨学金に近づけない」という排除(朴慧原) 【社会調査報告】序(市野川容孝) 【社会調査報告】地域再編におけるアートと歴史――横浜市中区黄金町における実践者の語りから(坂井晃介)
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2) 作者: カント,篠田英雄出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1974/06/17メディア: 文庫購入: 3人 クリック: 44回この商品を含むブログ (30件) を見る永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) 作者: カント,中山元出版社/メーカー: 光文社発売日: 2006/09/07メディア: 文庫購入: 19人 クリック: 104回この商品を含むブログ (101件) を見るフーコーの「啓蒙とは何か」についての論文を読むことになったので、とりあえず本家カントの方を再読しようと思い立ち、読んでいたのですが。これがかなり面白い。というか、中々どうやら不穏なことを言っている気がする。最近はフーコーの博士論文(の副論文)であった『カントの人間学』を読んで訳わからねーとか思ってたりもしたんやけれど、カント自身の「啓蒙につい
小泉尚樹、嵯峨一郎、長友敬一、村松茂美編著 『はじめて学ぶ西洋思想』ミネルヴァ書房、pp. 255-261 2005/03 堀田 義太郎 フーコー(Michel Foucault:1926-84) 生涯と思想 「ミシェル・フーコーの伝記」を書くことほど、フーコーの実践に反する試みはない。フーコーはしばしば、「私が何者であるかを尋ねてはいけない」と述べている。フーコーの仕事は、つねに自分自身から逃れるための試みであり、彼にとって身元証明や自己同一性(アイデンティティ)とは、人間の生の自由をしばるための制度でしかない。自己同一性からの離脱を信条とする「フーコー」の人生の一貫した伝記を書くことは、フーコー自身のいわば「一貫した非一貫性」を裏切ることになる。しかしすでにお気づきだろうが、この一貫した非一貫性は、ある程度一貫したフーコーの伝記を通してはじめて見えてくる。そして、まさにこうした逆説と循
1.批判とは 今回はミシェル・フーコーの講義「批判とは何か――批判と啓蒙」より、批判とはいかなる試みなのかについて考えていきたいと思います。 日本では「批判的な人」というのは、文句ばかりで口うるさく、やたらとケチや難癖をつけてくるくせに無責任、そんな人のことを指すように思います。少なくとも、「かれは批判的な人なんだ」と紹介されてポジティブな感想を抱く人は滅多にいないでしょう。 けれど、批判にはもっと積極的な、私たちの生活に資する意義があるのではないか。それをフーコーの語ったことから見つけてみようというのが本文の主旨です。 さて。フーコーはまず、自分の語るところの「批判的態度」のあり方をカントが試みた〈批判〉の営為から引き出します。カント的な批判はかれの時代――近代の萌芽が芽生えはじめた頃に誕生したもので、それまでの批判のあり方とは一線を画していました。ではカント=フーコー的批判とはどういう
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