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社会と映画に関するfutoshi0417のブックマーク (6)

  • 核ミサイルが降る日、日本人は誰と何を食べたいか

    押井:その最後の晩餐のシーン、観た人みんながそれを語るんだよね。ミサイルのシーンがすごいとか、軍事衝突のシーンがすごいとか、そういうことよりも、普通の家の、最後の晩餐の話になる。私の周辺では少なくともそう。ある種の名シーンだと思うんだよね。 僕も子どもたちが無邪気なのが泣けて……ぐっと来ました。 押井:そしてフランキー堺が最後に絶叫っていうか、泣きながらセリフを言うんだよ。「かあちゃんに別荘を建ててやるんだ!」とか「娘(※冴子)にすごく派手な結婚式を挙げさせるんだ!」とかね。いちばん覚えてるのは「息子を大学にやるんだ!」っていうセリフ。それは間違いないと思う。 そこだけ改めて観てみましょうか。 「やい! 原爆でも水爆でも来てみやがれ! 俺たちの幸せに指一差させねぇから! 俺たちは生きてんだチキショウ! チューリップの花が咲くのを見て、俺は楽しむんだ! 母ちゃんには別荘を建ててやんだ。冴子

    核ミサイルが降る日、日本人は誰と何を食べたいか
  • 映画は「時代の不安」のタイムカプセルだ

    押井監督お久しぶりです。 押井:お久しぶり。 前回は「仕事に必要なことはすべて映画で学べる」がテーマ(単行はこちら)でした。今回のテーマは「映画歴史観を学ぶ」ということなんですが。 押井:なるほど。 押井監督は以前「文化歴史の忘却装置だ」とおっしゃっていましたね。 押井:うん、言葉をもうちょっと補足すれば「いま現在、文化歴史の忘却装置にしかなってない」っていう話なんだけどね。僕が主張したいのは、文化歴史の忘却装置であっていいのか? っていうことなんだよ。 あっていいのか。忘却装置ではいけないんでしょうか。 押井:「嫌な日常を忘れて、エンタメを楽しみたい」っていう気持ちはわかるよ。開放感を味わいたいとか、カタルシスを味わいたいとか、誰かの夢いっぱいの人生を追体験して、たどってみたいとか。それはもちろん映画の基的な機能だから。だけどそれだけになってしまって、浮き世のことを忘れる「忘

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  • 田舎医者は三度ペンライトを回す「ディア・ドクター」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥

    「ディア・ドクター」を観ました(@109シネマズMM)。 山あいの小さな村で、一人の医師が突然失踪してしまう。村人たちに慕われ、絶対的な支持を得ていた医師は、一体何故、その村から消えなければならなかったのか?刑事たちは捜査を始めるが、そこには医師と一人の老人とが交わした、ある秘密の約束が浮かび上がってくるのだった。 描かれるストーリーは重層的で描かれている人物は多面的、という、こう記すと一見非常に実験的な映画のように思えますが、そこはキチンと整理され、正攻法の人間ドラマというか、久々に骨太な邦画、いや映画を観たなぁー、と嬉しくなりました。 人間という生き物は、普段、割といい加減に「善か悪か」「故に成すべきか成さぬべきか」という物事の判断しているというか、行い自体の判断基準は属する集団の倫理に基づき、そして多くの場合、そのとある集団の倫理という物は、もっと大きな集団(つまりは国とか宗教とか)

    田舎医者は三度ペンライトを回す「ディア・ドクター」 - スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥
  • 宮崎駿が鞆の浦を「崖の上のポニョ」の舞台と言いたがらない理由。 - とれいん工房の汽車旅12ヶ月

    瀬戸内海の景勝地、鞆(とも)の浦(広島県福山市)で、宮崎駿監督のアニメ映画「崖の上のポニョ」の舞台をめぐり、市と市民団体の間で“論争”が起きている。 「ポニョ」の舞台めぐり論争 瀬戸内の景勝地、鞆の浦で産経新聞、2008.9.23 この「崖の上のポニョ」は公開初日(7月19日)、広島県福山市にある某映画館で見た。知人に誘われて瀬戸田町を訪ね、鞆の浦に立ち寄った、その帰りのことである。 鞆の浦に行ったのは、もちろん、この日、「ポニョ」の公開がされると知っていたから。 さぞ福山市は「ポニョ」フィーバーで盛り上がっているんだろうな、と半ば期待し、半ば不安に思いながら福山駅へ着いた。 でも、福山市中心部でも鞆の浦でも「ポニョ」という言葉はほとんど見ることがなかった。わずかにトモテツバスの車内に映画の200円割引券が吊されていたのと、ともてつバスセンター内の観光情報センターに手作りの観光マップみたい

    宮崎駿が鞆の浦を「崖の上のポニョ」の舞台と言いたがらない理由。 - とれいん工房の汽車旅12ヶ月
  • 空中キャンプ - 異能の者、命を削った遊び

    ネット上で公開されているドキュメンタリー映画、「The Great Happiness Space Documentary 2006」を見まして、わりとおもしろかったのでちょっと感想を書きたいです。約75分。大阪ホストクラブで働く青年たちと、客として店を訪れる女性を追ったドキュメンタリー。 作品を見ながら、ホストというのは、異能、異形の集団なのだなあとつくづくおもう。彼らの異能とは、「他人の心を意のままに操る」ことである。おそらく、ホストを目指す青年たちの欲望は、他人の心を自由にできるという全能感を終着地点としている。それはきっと、とてつもない快感だろう。登場するホスト青年たちは、「客に、僕を好きにさせるんですよ。それが不器用な人もいるけれど僕にはかんたん」と、平然とした表情でいう。ホストが嫌われる理由もきっとここにある。利己的な理由から、人の心をあっさりと操作することのできる者は警戒さ

  • 映画BABELと9.11をつなぐ世界共時視線 - カトラー:katolerのマーケティング言論

    BABELを見た。映画を見ている間、この作品に埋め込まれた「眼差し」をずっと感じていた。世界を俯瞰するのと同時に、地上を虫のように凝視するような眼差し、それは、パソコン上でGoogle earthを初めて操作した時に感じた「神の視線を手に入れた!」という感覚にも通じている。「BABEL」の世界は、誰の眼差しを通して創られているのか? 映画は、モロッコ、日、メキシコ、アメリカ、四つの国を舞台に、それぞれ無関係に見える4つの物語が、不協和音を響かせながら進行し始める。 壊れかけた夫婦の関係を修復するためにモロッコへの旅に出たアメリカ人夫婦。その旅行に出かけた両親の帰りを待つ幼い兄妹とその子守りのメキシコ人中年女性。母親が自殺したことで、父親との関係もぎくしゃくして、満たされない日々を送っている聾唖の東京の女子高校生(菊池凛子役)。そして、モロッコの山間で山羊を追って暮らしているモロッコ人親子

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