「それって陰謀論じゃないですか?」闇の国家「ディープステート」を信じる著名人一人一人に会ってみたら…どうなった?
尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナ、ナンダッテー!)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。 結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が本来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。 尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)の大型建物跡が見つかった。市教委が10日発表した。同時期の建物としては、国内最大の面積である上に、周辺で発掘された3棟とともに中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置だった。 邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期にあたり、専門家は「邪馬台国の中枢施設の可能性がある」と指摘している。畿内説と九州説が対立する邪馬台国の所在論争に影響を与える発見となる。 市教委によると、大型建物は南北19.2メートル、東西12.4メートル、床面積は約238平方メートルに及ぶ。現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。JR巻向(まきむく)駅西側。雨天中止。
白村江(はくそんこう)の戦い(663年)直後に築かれた古代山城(こだいさんじょう)のうち、唯一、築城目的が謎めいていた鞠智(きくち)城(熊本県山鹿、菊池市)についてのシンポジウム「古代山城 鞠智城を考える」が25日、東京都千代田区の砂防会館別館で開かれた。同城周辺の古代官道の存在に焦点があてられ、九州南部の隼人経略のために築城された、とする説が急浮上してきた。 古代山城は、唐・新羅の侵攻に備え、朝鮮半島の技術を導入して築城された。大野城(福岡県大野城市、宇美町)、基肄(きい)城(佐賀県基山町、福岡県筑紫野市)は、大和朝廷の対外拠点・大宰府(福岡県太宰府市)から約5キロ圏内にある。 だが、同時期に築かれたとみられる鞠智城は、熊本県北部にあり、大宰府と約80キロ離れ、有明海からも約30キロ内陸部にある。唐・新羅の侵攻に備えたにしては、大宰府からも海からも離れた特異な位置に存在する。 ほかの古代
終戦直前に特高警察で勤務していた大阪市福島区の井形正寿さん(88)が、当時の職場からひそかに持ち出して保管していた「特別高等警察執務心得」など内部文書の研究を進めている。15日の終戦記念日を前に産経新聞の取材にこたえ、「新米だったので仕事には違和感があった」と語った。文書には個人の思想信条に立ち入って監視、拘束もした特高警察の活動実態が生々しく記され、専門家も「現物が残っているのは珍しい」と注目する。 井形さんは昭和18年に大阪府警の巡査になり、20年7月から同10月まで八尾署特高係に勤務。共産主義者や朝鮮人の思想調査や行動監視などを担当、対象者の手紙を無断で開封して内容を確認したり、学校関係者に朝鮮人生徒の成績を低くつけるよう働きかけるなど、工作活動にも携わった。 終戦の日の午後に上司に呼ばれて捜査資料など大量の文書を渡され、処分するよう命じられた。しかし「これは後世に残さなければ」と感
11日、陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵で発見された人骨のミトコンドリアDNAを鑑定した結果、陵墓建設に従事した労働者の多くは南方から駆り出された少数民族であることが分かった。写真は秦の始皇帝陵。 2009年8月11日、陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵で発見された人骨のミトコンドリアDNAを鑑定した結果、陵墓建設に従事した労働者の多くは南方から駆り出された少数民族であることが分かった。中国新聞網が伝えた。 【その他の写真】 復旦大学生命科学院現代人類学研究センターの張君(ジャン・ジュン)研究員らのグループが現代中国人のミトコンドリアDNAと比較したところ、人骨の大半は中国南方の少数民族のものであることが分かった。漢族のものも含まれていたが、北方少数民族のものは発見されなかった。鑑定を行った121体は全て15歳〜45歳の男性で、平均年齢は24歳。死因は過酷な労働によるものと見られている。
【ワシントン=伊藤宏】米上院は18日、過去の奴隷制度を謝罪する決議を全会一致で採択した。決議は、奴隷制について謝罪することは米国民の和解や正義、調和の精神を前進させるとしている。しかし、奴隷の子孫であるアフリカ系国民への賠償を認めるためのものではない、としている。決議は数年前に民主党上院議員によって提案されたが、たなざらし状態だった。オバマ大統領の就任で人種問題に取り組む機運が出たことが今回の決議採択につながったとの見方もある。
2009年06月03日 Tweet 【歴史】400年前の大地震で一夜に消えた“日本のポンペイ”「帰雲城」 調査20年、見つからぬ物証 岐阜 歴史│12:19│コメント(22) 1 名前: おっおにぎりがほしいんだなφ ★ 投稿日:2009/06/02(火) 09:49:35 ID:???0 400年前の大地震で一夜にして姿を消し「日本のポンペイ」とも称される帰雲(かえりぐも)城(白川村保木脇(ほぎわき))。城はどこにあるのか。村外者主体の有志グループが調査を続けて20年以上になるが、城郭遺構の手がかりはつかめない。最近、村内からこの活動を支援する動きが出始め、歴史ロマンはまだまだ途絶えそうもない。 「地震でほとんどが土に埋まっているが、そこには間違いなく誰かが住んでいた。その物証を探し当てたい」。調査会事務局の野田秀佳さん(37)=羽島市=は力を込めた。地震で一瞬にしてのみこまれた幻の城。
小熊英二さんに聞く(上) 戦後日本のナショナリズムと公共性 『七人の侍』をみて、「これが戦後思想だな」と思った 「つくる会」に対抗したかった ――近著『〈民主〉と〈愛国〉』は大作ですが、小熊さんにこれだけの大著を書かせた動機はなんだったのですか。 ★前著の『〈日本人〉の境界』で戦後沖縄の復帰運動を書いたこととか、いろいろありますけれど、一つには90年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきたり、加藤典洋さんの『敗戦後論』をめぐる論争が盛り上がったりしたことです。私にいわせれば、あれは「戦争の歴史認識を論じる」というかたちをとって、「戦後という時代をどう考えるか」を論じていたといってよいと思う。「戦争」は「戦後」のネガであるわけですから、「あの戦争をどう位置付けるか」は、「戦後日本をどう位置付けるか」とイコールであるわけです。 しかし当時の私の知っている範囲から見ても、議論の前提になってい
社会 つくる会教科書 慶良間触れず合格2009年4月10日 【東京】文部科学省は9日、2008年度教科書検定の結果を公表した。「新しい歴史教科書をつくる会」(藤岡信勝会長)が主導し、自由社(東京)が発行する中学歴史教科書など2社2点が合格した。自由社の教科書は516カ所に検定意見が付き、再申請を経て合格したが、ほかの教科書が記述している沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)が起きた慶良間諸島への米軍上陸の事実に触れていないなど、太平洋戦争に関する記述をめぐる問題点が指摘されている。 「集団自決」における軍強制の記述を削除した2006年度の教科書検定に対し、沖縄では「沖縄戦の実相を歪(ゆが)めるもの」と厳しい抗議の声が上がった。 「つくる会」の教科書が「集団自決」に触れず、文科省や教科用図書検定審議会も意見を付さないまま合格としたことに、あらためて批判が集まりそうだ。 自由社の教科書は
ひこにゃんも応援?“悪役”井伊直弼見直そう 江戸東京博物館で講演 (1/2ページ) 2009.2.8 15:30 日米修好通商条約の締結(1858年)、横浜・長崎の開港(1859年)から150年。日本を開国に導いた大老・井伊直弼(1815~60年)を見直すイベントが19、20の両日、江戸東京博物館(東京都墨田区横綱)で開かれる。尊皇攘夷派の志士を処断した安政の大獄(1858~59年)で悪役のイメージが強い直弼だが、動乱の幕末で日本を果断に動かした主役であったことも確かだ。開国150年でイベント イベントは「びわこビジターズビューロー」や「井伊直弼と開国150年祭実行委」などが主催。 19日夜は講談師、旭堂南左衛門さんが直弼のほか織田信長、豊臣秀吉ら近江で活躍した歴史上の人物の物語を語り、高本一郎さんのリュート(びわに似た西洋古楽器)の演奏で楽しく歴史を学ぶ「ひこにゃんのてくてく歴史街道」
浄土真宗(一向宗)への弾圧が特に厳しかった薩摩藩や人吉藩などで、藩の目から逃れ洞穴や民家で隠れて行っていた信仰。薩摩藩では禁令が出された1597(慶長2)年から、1876(明治9)年の信教自由令まで300年近く続いた。弾圧の理由は「浄土真宗の平等の教えが封建制にそぐわない」「一向一揆を警戒」「本願寺への上納金が藩の財政を圧迫した」などとされる。 正座させたひざの上に100キロを超える石を乗せ、骨を砕き絶命させるなど、自白や改宗を求める信者への拷問は激しかった。 薩摩藩の真宗弾圧逃れ 「隠れ念仏」手写し経典 江戸末期? 小林市の民家で発見 (2009年1月5日掲載) 薩摩藩(島津氏)が弾圧した浄土真宗をひそかに信仰する「隠れ念仏」で使われた手写しの聖教(しょうぎょう)(経典)や説教本が、旧薩摩領の宮崎県小林市の民家から見つかった。最も弾圧が激しかった江戸末期のものとみられるが、多くは失わ
来春開幕する「丹波篠山築城四百年祭」に向け、篠山市で人権問題などに取り組む「ヒューマンライツの会ささやま」は、築城の際に命を落としたり、重税に苦しんだりした農民らにスポットを当てた展示会「築城の労苦と篠山藩政 史跡写真展」を同市黒岡の市民センターで開いている。メンバーは「お祭りや観光だけでなく、篠山の『陰の歴史』も知ってほしい」と話している。(前川茂之) 篠山城は関ケ原の合戦後の一六〇九年、徳川家康が大坂城攻略の拠点として、西国大名らに築城を命令。約二十大名が参加した「天下普請」は、延べ八万人が動員され、わずか九カ月で完成した。地元住民の多くも使役を課せられ、市内から約六万個の石を運び込んだとされる。 メンバーらは九月から二カ月かけて市内の当野、小坂、栗栖野地区など当時、石切場だった場所を訪問。急斜面の山中には、運ぶのをあきらめたとみられる巨石とともに、「南無阿弥陀仏」などと書かれた無数の
漢字に続き…麻生、今度は「歴史も知らない」疑惑 第2次大戦が真珠湾攻撃で!? 「未曾有(みぞう)」を『みぞゆう』、「怪我(けが)」を『かいが』といった漢字の読み間違いで国民の失笑を買っている麻生太郎首相に、今度は「歴史も知らない」疑惑が浮上した。これで自民党文教族の幹部というのだから…。 先に配信された首相の動画マガジン「太郎ちゃんねる」の第10回で、首相は「1941年12月に第2次世界大戦が真珠湾攻撃で始まるんですけど、10年後に日米安全保障条約なんて想像した人は、たぶんあのとき1人もいない」と発言した。 しかし、教科書出版大手の山川出版社の用語集では世界史、日本史ともに「第2次世界大戦」は、1939年9月1日にナチスドイツがポーランドを侵攻したことに始まったとされている。別の小中学生向けの参考書でも同様で、首相の話は、大戦の一局面である「太平洋戦争」の解説になっている。 首相の祖父、吉
奇妙な縁に「心安らぐ思い」=川島芳子生存説に山口淑子さん 奇妙な縁に「心安らぐ思い」=川島芳子生存説に山口淑子さん 旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」川島芳子が処刑を逃れ、中国東北地方の吉林省長春市で78年まで生きていたという証言について、旧満州で歌手兼女優の李香蘭として活躍し、芳子と親交があった元参院議員山口淑子さん(88)は18日、「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」と語った。 「妹のようにかわいがってくれた」。山口さんが芳子と初めて会ったのは16歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は「君も『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」と最初から打ち解けた。山口さんは13歳年上で、りりしい
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