タグ

沖縄戦に関するkojsのブックマーク (4)

  • 戦争本から学ぶべき、失敗を反省できない「日本人の本質」(古谷 経衡) @gendai_biz

    の敗戦は決まっていた ここには「僕をつくった10冊」を挙げました。歴史に偏りすぎたかな、とも思いましたが、僕の血肉を形成する、となると、こうなるんです。 1位の『沖縄決戦』は、日人であれば全員読まなければならないと思う一冊です。 第32軍司令部で唯一生き残った八原博通・高級参謀の回顧録で、このがなければ、日軍上層部の視点での沖縄戦は後世に伝わっていない。沖縄の住民やひめゆりなどの学徒隊、米軍側の手記はあっても、軍司令部の記録がわかるのはこのだけなんですね。 多くの犠牲者を出した沖縄戦ですが、司令部としては、土決戦の時期を遅らせようと、国のために戦ったのは間違いない。と同時に、戦術の失敗も多々あった。そういう経緯を知らずして、基地反対派であれ賛成派であれ、沖縄の悲劇を語るべきではないと声を大にして言いたいです。 2位も先の大戦をテーマにしたです。僕は猪瀬直樹先生の大ファンで

    戦争本から学ぶべき、失敗を反省できない「日本人の本質」(古谷 経衡) @gendai_biz
  • 隅田金属日誌(墨田金属日誌) 当の戦死者も「捨て石」だと考えるよ

    沖縄戦は土決戦の時間稼ぎであった。 内地は土決戦を行い最後の一人まで戦うといった。その準備のため、沖縄に時間を稼いでくれと頼んだ。 そして沖縄県民に戦闘協力を強要した。当時の内地人からすれば、沖縄県民は日人の仲間としては一品下るとみていた。植民地人に毛の生えた程度、一.五等市民扱いであった。* その沖縄県民に「君たちも日国民である、大和民族である」と戦闘協力を強要した。そして戦闘被害や戦後軍政の苦渋を舐めさせた。 だが、内地は土決戦しなかった。掌を返すように米国との和平を決めた。供犠として学徒中心の特攻隊や軍艦大和や県知事を送っただけだ。 復帰後の沖縄援助は「捨て石」とした、やましさの現れだ。だから沖縄開発には予算を注ぎ込んだ。建設土木教育、税制、イベントといったものだ。返還後の沖縄海洋博はそれだし、今でもガソリン税が安いのもそれだ。 ■ 歴史を知らない「捨て石」否定 だが、若

  • 【動画】3分で知る沖縄戦 なぜ県民4分の1が犠牲になったのか - 琉球新報デジタル

    1945年3月~6月の沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦で、当時の沖縄県民の4人に1人が犠牲になりました。 沖縄戦とはどんな戦争だったのでしょうか。3分で解説します。

    【動画】3分で知る沖縄戦 なぜ県民4分の1が犠牲になったのか - 琉球新報デジタル
  • “立派なおじいちゃん”は沖縄戦で自決した司令官だった | AERA dot. (アエラドット) | AERA dot. (アエラドット)

    ●自決した司令官の命令 天皇の「玉音放送」が流れた8月15日以降も、沖縄では日兵による「斬り込み」が相次ぎ、戦死者はさらに膨らんだ。9月7日、マッカーサーの命令で沖縄守備軍の代表が現在の嘉手納基地で降伏文書に調印する。 なぜ調印が必要だったのか。牛島司令官の「最後まで敢闘し」の命令と、来武装解除を伝えるべき司令官の「自決」により、沖縄守備軍の兵士は戦闘し続けなければならなかったのだ、と牛島さんは解説する。 6月23日は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日として「慰霊の日」と定められている。だが、牛島さんには腑に落ちない面もある。 「6月23日以降の戦闘は何だったのか。彼らは勝手に戦闘して死んでいったのではない」 牛島さんは、当時の「土」のマスコミ報道にも注目する。 6月25日に大営が「全戦力を挙げて最後の攻撃を実施せり」と発表すると、派手に書き立てていた土の沖縄戦の地上戦報道がピタ

    “立派なおじいちゃん”は沖縄戦で自決した司令官だった | AERA dot. (アエラドット) | AERA dot. (アエラドット)
  • 1