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備忘録に関するluccioraのブックマーク (4)

  • 風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より - lucciora’s diary 蛍日記

    「外は良寛」/松岡正剛著より 備忘録的に、文章を書きうつしています。 融通無碍でフラジャイルな寂しがりやの良寛さん。自由な風のような良寛さん。 「良寛はいつも人恋しかったのではないかと思うのです。かなりの淋しがり屋にほかならないのです。だいたい一人ぼっちが好きなのは淋しがり屋の証拠です」と松岡正剛さんは書いていらっしゃいますが、そんな気がします。存在することは、来孤独な事だと思います。 ・・・ 文化十三,四年(1817年)のとき、良寛はまた五合庵を出て、すぐ近所の乙子神社の草庵に入ります。 六十歳になっていた。いよいよ万葉趣味に傾倒しきっていた時期ですが、その一方かなり病気がちになります。 ・・・ たしかに良寛の消息二百六十三通のうち、病気に関するものが実に三十四通もあることからしても、良寛が病がちで、また気分的に病気に弱かったことが推測されます。薬を乞うている手紙も多い。弱気も出て、と

    風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より - lucciora’s diary 蛍日記
  • 「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より - lucciora’s diary

    2016 - 10 - 09 「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より 「外は 良寛 」 松岡正剛 著より/備忘録3 良寛 の詩歌には「つつ」という言葉がたびたび出てきます。 霞立つ長き春日を子供らと  手まりつきつつ今日も暮らしつ 手毬をつきつつ今日も暮らしているというのは、単に手毬をついて今日も暮らしているということとちがいます。 手毬をつくことが「つつ」で強調されている。手毬をついていることが暮らしに大きくかぶさっているわけです。しかもそこにはかなり積極的なずれもある。 ずれて反復するものがある。 紀の国の高ぬのおくの古寺に  杉のしづくを聞きあかしつつ (高ぬは 高野山 のこと) 山かげの草の庵はいとさむし  柴をたきつつ夜をあかしつ 雪の夜に寝ざめてきけば雁かねも  天つみ空をなづみつつ行く 浮雲 のいづくを宿とさだめねば  風のまにまに日を送りつつ 良寛 の最期に接した貞心尼の

    「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より - lucciora’s diary
  • 人生のほんとう/池田晶子著 備忘録2 - lucciora’s diary 蛍日記

    ひきつづき・・・ 『人生のほんとう』/池田晶子より 第5章「魂」より p144 私は輪廻転生の思想というのは 人間が自己の何であるかを考えていった場合に 必ず現れてくる根強い一つの型だと思っています。 自分の何であるか、この魂はなぜこうなのかということ、 その歴史を垂直方向に求めてゆくと 必ずこの表象が現れてくる。 表象というのは、必ずしも空想ではありません。 なぜ自分は自分なのかということを水平方向に、 親から生まれた、さらにそれを遡って家系とか祖先とか、 この世の時間軸を遡る方向ではなく、 今現在においてこの魂の何であるかを問うと、 現在というのはその意味で無時間ですから、 自分をどこまでも垂直に掘ることになる。 そうすると必ず超時間的な次元というものに出てしまう。 突き抜けちゃうんですね。 この自分は何なのかと問うていった場合に、さっき話したように、 あらゆるものが、流転する魂として

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  • 人生のほんとう/池田晶子著 備忘録4 - lucciora’s diary 蛍日記

    ひきつづき…『人生のほんとう』より 語りのレベル p172 私はさきほど、「善く生きる」といいましたが、同時に「どうでもいい」と言っています。 これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、矛盾していません。 あるいは矛盾しているといってもいいです。実際、矛盾しているんだから。笑 池田の言うことはどうも矛盾しているのではないか。 いつも何か違うことを言っているように聞こえるかもしれません、ひょっとしたら。 けれども、物語を語ることは、どのレベルでものを言うかということです。 つまり存在イコール自己、この「イコール」さえ理解できていれば、 私の言うことが矛盾していないことが分かります。 何を言ってもいいんだ、どのレベルで語っているかの違いに過ぎないんだということが わかるはずです。 ちょっと説明的に言うと、人間はいろいろなレベルを一人の個人が持っています。 つまり個人の某としての存在、あ

    人生のほんとう/池田晶子著 備忘録4 - lucciora’s diary 蛍日記
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