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松岡正剛に関するluccioraのブックマーク (5)

  • 「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より - lucciora’s diary 蛍日記

    「外は良寛」松岡正剛著より/備忘録3 良寛の詩歌には「つつ」という言葉がたびたび出てきます。 霞立つ長き春日を子供らと 手まりつきつつ今日も暮らしつ 手毬をつきつつ今日も暮らしているというのは、単に手毬をついて今日も暮らしているということとちがいます。 手毬をつくことが「つつ」で強調されている。手毬をついていることが暮らしに大きくかぶさっているわけです。しかもそこにはかなり積極的なずれもある。 ずれて反復するものがある。 紀の国の高ぬのおくの古寺に 杉のしづくを聞きあかしつつ (高ぬは高野山のこと) 山かげの草の庵はいとさむし 柴をたきつつ夜をあかしつ 雪の夜に寝ざめてきけば雁かねも 天つみ空をなづみつつ行く 浮雲のいづくを宿とさだめねば 風のまにまに日を送りつつ 良寛の最期に接した貞心尼の歌にも「つつ」が出ます。 「これぞこのほとけの道にあそびつつ つくや尽きせぬみのりなるらむ」 という

    「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より - lucciora’s diary 蛍日記
  • 風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より - lucciora’s diary 蛍日記

    「外は良寛」/松岡正剛著より 備忘録的に、文章を書きうつしています。 融通無碍でフラジャイルな寂しがりやの良寛さん。自由な風のような良寛さん。 「良寛はいつも人恋しかったのではないかと思うのです。かなりの淋しがり屋にほかならないのです。だいたい一人ぼっちが好きなのは淋しがり屋の証拠です」と松岡正剛さんは書いていらっしゃいますが、そんな気がします。存在することは、来孤独な事だと思います。 ・・・ 文化十三,四年(1817年)のとき、良寛はまた五合庵を出て、すぐ近所の乙子神社の草庵に入ります。 六十歳になっていた。いよいよ万葉趣味に傾倒しきっていた時期ですが、その一方かなり病気がちになります。 ・・・ たしかに良寛の消息二百六十三通のうち、病気に関するものが実に三十四通もあることからしても、良寛が病がちで、また気分的に病気に弱かったことが推測されます。薬を乞うている手紙も多い。弱気も出て、と

    風の便りにつくと答えよ…「外は良寛」より - lucciora’s diary 蛍日記
  • 外は良寛 / 松岡正剛著 備忘録 - lucciora’s diary 蛍日記

    ひきつづき「外は良寛」松岡正剛著より… 世の中に交じらぬとにはあらねども 一人遊びぞわれはまされる 良寛の一人遊びは手毬とおはじきです。良寛には、特に手毬はぴったりだったかもしれません。手毬ははぐれていくリズムを持っているからです。 はぐれるリズムをもつということは、そこにおぼつかない「うつろいやすさ」があるということですが、こうした時々刻々に微妙に変化するリズムこそ、良寛にはふさわしい。一人遊びではないけれど、存外に一人を感じさせる“かくれんぼ”も好きな良寛でした。こんな歌があります。 草枕夜ごとにかわるやどりにも むすぶは同じふるさとの夢 この歌は「夜ごとに変わる」というところが大事で、その変わっていかざるをえないことがたいへん良寛的です。 しかし夜毎に草枕が変わるといっても種田山頭火や尾崎放哉がしたような徹底的な放浪というものとは違います。 良寛は徹底ではないのです。 もっともっとう

    外は良寛 / 松岡正剛著 備忘録 - lucciora’s diary 蛍日記
  • 「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より - lucciora’s diary

    2016 - 10 - 09 「連音」する「連字」ーー「外は良寛」より 「外は 良寛 」 松岡正剛 著より/備忘録3 良寛 の詩歌には「つつ」という言葉がたびたび出てきます。 霞立つ長き春日を子供らと  手まりつきつつ今日も暮らしつ 手毬をつきつつ今日も暮らしているというのは、単に手毬をついて今日も暮らしているということとちがいます。 手毬をつくことが「つつ」で強調されている。手毬をついていることが暮らしに大きくかぶさっているわけです。しかもそこにはかなり積極的なずれもある。 ずれて反復するものがある。 紀の国の高ぬのおくの古寺に  杉のしづくを聞きあかしつつ (高ぬは 高野山 のこと) 山かげの草の庵はいとさむし  柴をたきつつ夜をあかしつ 雪の夜に寝ざめてきけば雁かねも  天つみ空をなづみつつ行く 浮雲 のいづくを宿とさだめねば  風のまにまに日を送りつつ 良寛 の最期に接した貞心尼の

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  • 外は良寛/松岡正剛著よりーーまたその中にあわ雪ぞ降る… - lucciora’s diary 蛍日記

    松岡正剛さんの「外は良寛」を読んだ時のメモ。2007年の日記より。 良寛さんの歌「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」は生と死の表裏一体を思わせて、かつやさしく大好きな歌である。 あらためて良寛さんの書を見ていると、詩人の吉増剛造さんの文字を思い出した。一文字一文字から「音」の聞こえてきそうな文字、手毬をつきながら数をかぞえる良寛の声や息遣いを感じさせるような文字である・・。 を読んでいると良寛さんの「淡雪」のようなイメージが浮かんでくる。心にかかった文章をメモしていきたい。 ……… 淡雪の中にたちたる三千大千世界 またその中にあわ雪ぞ降る 良寛の書に一番ふさわしい言葉は「フラジャイル」(fragile) という言葉だと思います。フラジャイルとかフラジリティという言葉はふつうは「弱々しい」といった意味です。(中略) しかし僕が考えているフラジャイルという感覚はもっと積極的なもので、もちろ

    外は良寛/松岡正剛著よりーーまたその中にあわ雪ぞ降る… - lucciora’s diary 蛍日記
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