レーゲンスブルクの大聖堂(内陣) [副題]総カルト化する日本が学ぶべき欧米の知恵(3) (プロローグ) 5月7日(月、PM7:30〜)に放送された「NHKクローズアップ現代:9条を語れ 憲法は今」で、下記の事実(●)を知り衝撃を受けたことで、このシリーズ記事が始まりました。 ●財界の改憲論の主張(経済同友会が火付け役となった)は、グローバリズム経済で世界に伍して大競争に勝ち抜くためには集団的自衛権の行使を容認して「世界の経済戦線で活躍するビジネス現場を自衛隊が守るべきであり、そこでは場合によって先制攻撃も辞すべきでない」と考えていること。 ●格差拡大が進みつつある日本社会の底辺へ押しやられた、いわゆる負け組みの人々の中で「一種の職場としての戦争願望から改憲を望む」若者たちが増えつつあること。 いわば、この衝撃は『異質なものや考え方が、互いに自立性を保ちつつ共存し、補完し合い、相呼応して共に
“神はアダムに向かって言われた。 「お前は女の声にしたがい、とって食べるなと命じた木から食べた。 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生え出でさせる、野の草を食べようとするお前に。 お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るまで。 お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」” 創世記3章17節 “常時滴水さんは京都の林丘寺に居たのだが、林丘寺は門跡で、寺格がよいので政府からお手当てが下ってゐた。話のまに河村が滴水さんに、 「政府が若し林丘寺のお手当てを取り上げたら、あなた、どうなさいますか。」 と尋ねた。 「さうなりや、托鉢でもしよう。」 と滴水さんの答。河村が、 「若し政府が托鉢も封じたら、どうなさるつもりですか。」 「そうなりや、死ぬだけじやがな。―おまへは何とか云う大学校を出たとかいう話だが、ものの
増田⇒■ 俺は哲学史を勉強することばっかり考えてこれまで哲学書を無心に読むことをしてこなかった。なんてもったいことをしていたんだろう。深夜に目が覚めてから三時間、さっきまでデカルトの「方法序説」と「省察」を読み耽ってた。すぎょかった。こんだけすぎょいものを読んだ上で反発しようと思って、一定の批判を行えた批判者のみなさんもすぎょい。哲学ってすぎょい。というよりも西洋の知すぎょい。安易に西洋中心主義的思考ファック!とかいうの禁止する。 まったくそのとおり。 ただ、「方法序説」と「省察」のすぎょさっていうのは、なんというかデカルトのプレゼンテーターのすぎょさでもあって、哲学それ自体とはちょっと言えない点もある。 「方法序説」は、"Discours de la methode "であって英語だと、"Discourse on the Method "。はてな語に訳すと「デカルト・メソッドについて本人
講談社文庫のツァラトゥストラはハイデガーの註をつけていた。あれがよかった面と悪かった面があるかもしれない。というか、結局ハイデガーを読んでいたようでもあるし。 あのころ、西尾幹二が文壇?というかニーチェ学者として出てきたのだが、私のような高校生レベルで、こ、これはニーチェが読めてねーとか思ったものだった。ツァラトゥストラは四部あり、三部で大きな転調のようなものがある。永劫回帰の問題でもあるし、<正午>の問題でもある。だが、西尾はせいぜい一部で留まっていた。この人には西洋の思想というに取り組む胆力とういのがないのではないかと若造ながらに思った。というか、ハイデガーですらというかハイデガーだからかということもかもしれないが、彼の持つテキストを読み解こうとする妄念のようなあるいは自己規律のようなものが、西尾には感じられなかった。その後の西尾については率直にいってほとんど関心ない。吉本が意外に西尾
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く