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哲学に関するna23のブックマーク (27)

  • ぼっちを救うためのストア哲学 - 本しゃぶり

    なぜぼっちは恵まれているのに苦しむのか。 それは心像に負けているからである。 幸福になりたければストア哲学を実践しろ。 暗く狭い場所にて 『ぼっち・ざ・ろっく!』の人気が凄い。 1話の時点からクオリティが高いなと思っていたが、回を増すごとにどんどん人気が高まっている。最近はTwitterを開くたびにファンアートが流れている印象がある。 もちろん俺も楽しんで見ているわけだが、つい思ってしまうことがある。作の主人公、ぼっちこと後藤ひとりに対して、「こいつ、持っているな」と。 『ぼっち・ざ・ろっく!』第1話 感受性。創造力。優れた容姿。生まれの良さ。練習を持続する意志。アリストテレスならば、彼女のことを「外的な善を持ち合わせている」と評するだろう。 だが何よりもぼっちは、卓越した演奏技術、すなわちギタリストの徳(アレテー)を持っている。これほど素晴らしいことがあるだろうか。 しかし当のぼっちは

    ぼっちを救うためのストア哲学 - 本しゃぶり
  • 「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい|ふろむだ@分裂勘違い君劇場

    「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい 『たまたま「これがニーチェだ(永井均)」を読んでいたら「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにニーチェがどう答えたかという話があったので一部引用してみます。』 という小野ほりでいさんのツイートに対し、「ニーチェの答えがすごい」というコメントがいくつも寄せられています。 その小野ほりでいさんのツイートで引用されたのは永井均『これがニーチェだ』の以下の部分です: この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかないー きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。 それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない

    「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい|ふろむだ@分裂勘違い君劇場
    na23
    na23 2021/11/03
  • 人文学は何の役に立つのか? - 道徳的動物日記

    (2020/12/10 追記) この記事で行なった議論を大幅に改訂したものを、晶文社スクラップ・ブックの連載で発表した。どちらかといえば、この記事ではなくそっちを参照してほしい。 s-scrap.com 近年、「学問は役に立つのか?」「人文学を学ぶ意味はあるのか?」「利益を上げない学問に税金を投入する意味はあるのか?」みたいなことが言われることが多くなっているような気がする。大体の場合、やり玉に挙げられるのは人文学や文系の科目全般だったりする。 私は学生時代に人文系の学問を専攻していたし家族にも人文系の大学教授がいるのでわかるのだが、人文系の大学教授の大半は、「人文学は役に立つのか?」あるいは「お前のやっている学問は何かの役に立つのか?」ということを問われると憮然としたり心外だと言わんばかりに憤ったりする。それで「役に立つかどうかという理由で学問をやっている訳ではない」「何かの役に立つから

    人文学は何の役に立つのか? - 道徳的動物日記
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    na23 2017/04/01
    役に立ったことについては忘れるか知らないかで、なかったことにして切り捨てようとする
  • Amazon.co.jp: 井筒俊彦:叡知の哲学: 若松英輔: 本

    Amazon.co.jp: 井筒俊彦:叡知の哲学: 若松英輔: 本
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    na23 2013/11/28
    欲しいっす。
  • ユガ - Wikipedia

    ユガ(Yuga)は、インド哲学において、循環する4つの時期からなる「時代」の名前である。4つの時期とはサティヤ・ユガ(英語版)[1]、トレーター・ユガ(英語版)、ドヴァーパラ・ユガ(英語版)、そして最後にカリ・ユガである。4ユガを合わせたものが大ユガ(432万年)。千の大ユガをカルパ(劫)といい、梵天(ブラフマー)の昼(夜)にあたる[2]。ヒンドゥー教の宇宙観によると、宇宙の生命は41億年から82億年のサイクルで創造、破壊される[3][4]。ブラフマー自身の寿命は、311兆400億年である[5]。サイクルは季節のように繰り返すと言われる。また春夏秋冬のように、それぞれのユガは段階を持ち、徐々に移り変わって行く。黄金時代から暗黒時代へのサイクルは、太陽系が別の恒星の回りを公転しているためだと言われる[6]。 4つのユガの期間[編集] ユガについて記載された最も古い文献の1つであるマヌ法典には

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    na23 2013/04/02
    ユクテスワ師はA.D.500年に上昇弧が始まったと言っている。
  • Amazon.co.jp: ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?: ダニエル・カーネマン (著), 友野典男(解説) (その他), 村井章子 (翻訳): 本

    Amazon.co.jp: ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?: ダニエル・カーネマン (著), 友野典男(解説) (その他), 村井章子 (翻訳): 本
  • Amazon.co.jp: 聖なる科学―真理の科学的解説: ギャナアヴァター・スワミ・スリ・ユクテス: 本

    Amazon.co.jp: 聖なる科学―真理の科学的解説: ギャナアヴァター・スワミ・スリ・ユクテス: 本
  • 本が好き! Book ニュース

    Bookニュースをリニューアルしました! 新しいデザインでより読みやすくなったと自負しております。 http://www.honzuki.jp/news/ 今回のリニューアルに伴い、RSSのURLも変更になりました。 リーダーなどにご登録してくださっている場合は、 お手数ですが併せて設定の変更をお願いいたします。 http://www.honzuki.jp/news/?feed=rss 今後も、マニアックな情報を配信していきますので、 よろしくお引立てくださいますようお願いいたします。

    na23
    na23 2012/09/13
    持ってるだけで自己満足できそうな本。
  • Amazon.co.jp: ニーチェ伝―ツァラトゥストラの秘密: ヨアヒムケーラー (著), 五郎丸仁美 (翻訳): 本

    Amazon.co.jp: ニーチェ伝―ツァラトゥストラの秘密: ヨアヒムケーラー (著), 五郎丸仁美 (翻訳): 本
    na23
    na23 2012/05/03
    ニーチェのあの「病的な感じ」には理由があった。
  • 『善人ほど悪い奴はいない』 中島 義道 | 考えるための書評集

    ニーチェは「神は死んだ」とか「永劫回帰」、「権力への意志」とかいろいろな面で語られるが、中島義道はニーチェのキリスト教道徳への批判を秀逸なタイトル『善人ほど悪い奴はいない』にまとめてくれたと思う。わたしはニーチェのこの道徳批判と真理批判の二面に強く魅かれてきた。 このは善人の個人批判では瞠目するものがあると思うのだが、わたしがニーチェの善人批判でいちばん重要だと思う人間の質が低くなることをメインに捉えていなかったので、そこは問題だと思った。 「よいこと」というのは人より優れては人にとって「いいこと」にならないので、善の道徳を志向する社会はどんどん低劣に劣等に落ちてゆくというのがニーチェの道徳批判の骨格だと思う。この道徳や社会ダイナニズムを批判しない善批判はあまりにも片手落ちである。 ドストエフスキーの『白痴』はおそらく善について語られただと思うが、善人は人より優れるなら人にとっていいこ

    na23
    na23 2011/12/03
    ギドー氏の本はいいんだけどどっちかというと金太郎飴だからなぁ。
  • 最近はやりのニーチェかな - finalventの日記

    はてなブックマーク - 「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評 率直に言うと、なんかとても変な感じがして、少し考え込んだ。 簡単に言うと、「なぜ人を殺してはいけないの?」とニーチェに問われたら、ニーチェはその問いが理解できないと思う。つまり、「人を殺してはいけない」という前提自体をニーチェは共有しないし、ニーチェと限らず19世紀の西洋人にとって意味をなしてないないはず。意味をなすとすれば、どのような人を殺してはいけないか、という、共同体倫理の文脈でしかない。 しいていえば、ニーチェにしてみると、ある部族なり民族がなぜ同一共同体内の人を殺してはいけないかという掟を持つのか、という、そういう限定された倫理の命題としてしか理解できないはず。 ほいで、そのように問いをフォーマライズすればおのずとニーチェの答えも出てきて、ようするに共同体倫理と自

    最近はやりのニーチェかな - finalventの日記
    na23
    na23 2010/10/20
    最後はいいね。
  • 浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?

    週刊ダイヤモンドの記事「続・憂国放談」で、浅田彰×田中康夫の対談のゲストに宮台真司が来たときのこと。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200512/ ぼーっと見てたら、浅田彰のフーコーの権力論(と統治論)の明快な整理があったので、ちょっと長いけれど引用。 (…)ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的

    浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?
    na23
    na23 2010/10/02
    浅田彰が言うと変な想像が走るからやめてくれ。
  • 構造主義 - Wikipedia

    構造主義(こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場し主にフランスで発展していった20世紀の現代思想のひとつである。なお、構造主義と構成主義は異なる。構造主義の代表的な思想家としてクロード・レヴィ=ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトらが活躍した。 概観[編集] 構造主義は広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である[注釈 1]。構成主義者のジャン・ピアジェが「構造主義」という著書を出版していたり、「構造主義」「構成主義」「構造構成主義」「構築主義」など、大学で哲学を学ぶ学生を混乱させる用語は多いが、構成主義と構築主義(社会構成主義)は同じである[1]。なお、構造主義と構成主義は

    na23
    na23 2009/11/05
    文明と未開という枠組みを取っ払ったのはすごい。ポスト構造主義も構造主義の一部か。
  • ニーチェ

    http://www37.atwiki.jp/nikopun0315 哲学・思想・倫理学系の数ある天才達の動画を貼った哲学サイト 。ニーチェやドゥルーズ、フッサールやフーコーがいます。ダメットなんて、少しマイナーなお方も コメントも書けるし、けっこうおもしろいと思います また質素ながら、哲学史も書いてるので、よかったら除いてみてください 【カテゴリー】 大陸合理主義 - イギリス経験論 - 超越論的哲学 - ドイツ観念論 - 生の哲学 - 現象学 - 実存主義 - 解釈学 - 論理実証主義 - 構造主義 - プラグマティズム 【動画リスト】 ニーチェ サルトル フッサール ハイデガー メルロ=ポンティ ジャン=リュック・ナンシー ドゥルーズ ロラン=バルト デリダ フロイト フーコー ウィリアム・ジェイムズ ジンメル ポール・リクール ラッセル ウ

    ニーチェ
    na23
    na23 2009/05/03
    晩年の痛々しくなってしまっているニーチェのようだ
  • NVK publishing maga all

  • ロゴス的世界とその仏 19 - 安愚多楽

    na23
    na23 2008/12/07
    非常に濃いのだが…
  • 近代の後に来る思想とは - 美しさの中を歩め2023 目覚めへと向けて

    na23
    na23 2008/04/11
    若干の違和感があるが。
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 「疎外」についてさらに - finalventの日記

    先日の続きのようだが これと⇒finalventの日記 - 物象化論だけど これ⇒finalventの日記 - まちょっとノート このあたりは実際にはデリダのいう「差延」と同じことになるかもしれないが。 仮の主体、I-am存在は、a teacherにおいて、自己同定(identify)するわけで、そこで、I-am存在は名辞において、初めて存在しえるのだけど、そこに原初的な差延が存在している。 私の先日の話では、I-am存在を抜いた、a teacherのような名辞あるいは名辞的な存在には、レヴィナスのイリヤ(il y a)のようなものが含まれており、これがλ演算的に、ある種内包している。なので、私は、デリダように差延化されるべきI-am存在が主体として考察されるのは間違いではないかとは思う。まあ、この問題は、デリダとその背景の存在論を含めて議論しなければならないのだが、いずれにせよ、差延は出

    「疎外」についてさらに - finalventの日記
    na23
    na23 2007/09/28
    「共同幻想というのは神という他者であり、対幻想というのは女という他者(あるいは男という他者)だ」あと国家はなくならないと。
  • 叡知の伝統としての哲学史 - 美しさの中を歩め2023 目覚めへと向けて

    na23
    na23 2007/09/03
    最近エントリが専門的すぎるが…。