タグ

戦争と昭和に関するpbncのブックマーク (2)

  • 天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会 - 読む・考える・書く

    特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦 「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死 沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月) 戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月) こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。 昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。 特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言

    天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会 - 読む・考える・書く
  • 最後の伝え手として 張本勲さんに聞く|NHK NEWS WEB

    のプロ野球でただ1人、3000安打を達成するなど、球界を代表する打者として活躍した張勲さん(77)。5歳のとき、出身地の広島市で被爆、姉を失いました。現役時代はもちろん、引退後もしばらくは自分が被爆者であることを周囲に語らなかった張さんですが、10年ほど前のある出来事をきっかけに、みずからの被爆体験を積極的に若い世代に語り伝えようとしてきました。張さんの野球人生に、原爆はどう影響したのか、被爆体験を語らせるよう張さんを突き動かしたものは何だったのか。そして、戦後72年が経ったいま、被爆者として何を思い、何を伝えようとしているのかを聞きました。(アナウンス室・北野剛寛アナウンサー) 昭和20年8月6日の朝。5歳だった張さん。広島市の自宅から遊びに行くため戸を開けようとした瞬間でした。 それこそピカドン、当にぱあっと光って、どーんという音がしたことしか覚えていないんですよ。気

    最後の伝え手として 張本勲さんに聞く|NHK NEWS WEB
    pbnc
    pbnc 2017/08/15
    昨晩というか今朝の深夜便でやってましたね。
  • 1