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ブックマーク / call-of-history.com (10)

  • 何故、江戸時代の司法制度は「自白」に頼っていたのか?

    承前:中世西欧編→何故、中世の司法制度は「自白」に頼っていたのか? 江戸時代の裁判制度について簡単にまとめ。 幕藩体制において三権分立は存在しなかったため、行政府であり立法府である幕府・大名が司法裁判権もまた行使していた。江戸幕府の裁判制度の機構的成立は寛文期(1661~73)で、老中に集中していた裁判権を新設された寺社・町・勘定三奉行からなる「評定所」へと移行、各奉行の下に法曹官僚が登場する。元禄十年(1697)の「自分仕置令」によって領主裁判権が保障され、寛保二年(1742)、判例法である「公事方御定書」が制定、宝暦期(1751~64)に最終的成立を見て以降、裁判制度が確立した。 各大名領内に対してはそれぞれ領主に刑罰権が保障され、都市についても江戸は町奉行・勘定奉行、寺社領は寺社奉行、他、それぞれ奉行や代官などが各々行使しうる権限の範囲に強弱はあるが行政権とともに司法権を担っていた。

    何故、江戸時代の司法制度は「自白」に頼っていたのか?
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    a1ot 2016/05/19
    「幕藩体制において三権分立は存在しなかったため、行政府であり立法府である幕府・大名が司法裁判権もまた行使していた。幕府法はあくまで統治のための法であって、権利の体系ではなかった
  • 「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命」松尾 剛次著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    中国韓国の仏教は日ほど葬送にかかわることなく、葬儀は儒教や道教、シャーマニズム、あるいは無宗教的な手法で行われるのが常であるという。日の仏教が葬式仏教として葬送儀礼に深く関与するようになったのはなぜか、書ではその仏教革命ともいえる日仏教の葬式仏教化の過程が解き明かされる。 結論からいうと仏教の僧侶が組織的に葬送儀礼に関るようになるのは鎌倉仏教教団が格的に社会的影響力を持ち始める十三世紀~十五世紀ごろのことで、檀家制度や諸法令などが整備されていく江戸時代の十七世紀~十八世紀以降やっと葬式仏教が確立する。 それ以前は、仏教の僧侶たちは葬儀に対してはかなり消極的だった。古代から中世にかけて穢(ケガレ)忌避の観念は制度化され、僧侶たちも非常に強く穢れを避けることを意識していた。死穢は「死体に触れたり、葬送、改葬、墓の発掘などに携わったために生ずる穢れで、その穢れに触れた人間は普通、三〇

    「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命」松尾 剛次著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    a1ot 2016/05/05
    「葬儀が行われるのは一部の貴族以上の人々に限られていた。庶民は風葬・遺棄葬のかたちをとるのが常であった。葬送されない死体は河原・道路・橋のたもとなどに運ばれて捨てられた
  • 「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ヨーロッパの中世を「暗黒時代」、すなわち「暴力と狂信と無知と停滞の時代」とする見方はすでに否定されている。確かに絶え間なく続く戦争と、キリスト教的世界観の浸透と、ローマ教会の支配が築かれ、ギリシア・ローマ時代の知識が少なからず一時的ながら失われた時代ではあったけれども、後に近代を切り開く土台となる様々な技術のささやかながら着実な革新が繰り返された、ゆっくりと着実な進歩の時代であった。その中世ヨーロッパのテクノロジーとイノベーションはどのようなものであったのか、緩やかな技術革命の千年を振り返る一冊である。 別に中世ヨーロッパが栄光の時代であったとか、産業革命に比肩する技術進歩の時代だったなどと言う訳ではなく、ただただ、後進地であったヨーロッパで中世の千年間で起きていた地道な技術的革新の歩みを描いているに過ぎないが、そこにドラマがあり、面白さがある。ジャレッド・ダイアモンドとかウィリアム・H・

    「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
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    a1ot 2015/11/15
    「中世ヨーロッパのテクノロジーもイノベーションもその殆どは中国、インド、イスラーム世界などの先進的な地域からの借り物を土台
  • 「『大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年」加藤聖文 著

    昭和二十年(1945年)八月十五日正午、玉音放送が流れ大日帝国臣民は敗戦を知らされた。大日帝国の崩壊はただ日の敗北を意味するだけではない。大日帝国の崩壊によって大日帝国による植民地支配体制が崩れ、新しい国家、新しい国際秩序が東アジア地域に誕生することになった。その八月十五日前後の経過を通して大日帝国下の日、朝鮮、台湾、満州、樺太・千島、南洋諸島、東南アジア諸地域が迎えた敗戦と変化を概観した一冊。 まず序章としてポツダム宣言の公表に至る諸国の駆け引きが、第一章ではそれを受けての日政府の対応が描かれる。 ポツダム会議の議題はヨーロッパの戦後処理とともに唯一抗戦する日をどうするかであった。米国内では天皇の地位を保障して早期停戦に持ち込むべきとするグルー国務次官・スティムソン陸軍長官派と天皇の地位保障を盛り込むべきでないとするバーンズ国務長官・ハル前国務長官の無条件降伏派との対立

    「『大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年」加藤聖文 著
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    a1ot 2015/08/16
    「政府や外務省は陸軍の暴発をいかに防止するかに集中。陸軍は本土決戦を叫びつつも実際は自己の組織利益をいかに維持するかに腐心。戦争という外国相手の政治闘争を行っているにもかかわらず、日本人相手の政治闘争
  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
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    a1ot 2015/07/29
    「昭和12年から20年にかけて発行された国債の約7割が日銀引受。予算は主に運輸・糧食・被服などの兵站と兵器・軍需資材の購入として国内の財閥にばらまかれた。三菱重工業・日本製鉄・住友金属・日立製作所など
  • 「幕末外交と開国」加藤 祐三 著

    黒船来航から日米和親条約に至るプロセスを「(1)無能な幕府が(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、(3)極端な不平等条約を結んだ」(P257)と理解する見方が強まったのは明治十年以降だという。明治政府は一連の条約改正を政治課題に掲げて前政権である幕府の無能無策を強く主張するキャンペーンを張り、これが通説として長く信じられるようになった。しかし、史料を丹念に追うと、このような幕府無能説、軍事的圧力説、日米和親条約の不平等条約説はどうにも当てはまらない。では黒船来航はどのような過程をたどったのかをコンパクトかつ丁寧に解説したのが書である。 まず、黒船来航は幕府にとって青天の霹靂、であったとはとても言えない。前々から幕府は周到な準備を行っていた。まず、前提としてアヘン戦争を契機に海軍をもたないことから諸外国より劣勢にあるという認識の下で、外国船に対し強硬に武力で追い払うとしていた文政令(18

    「幕末外交と開国」加藤 祐三 著
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    a1ot 2015/06/18
    「米国は日本への開国要請に際し、日本と交戦状態となることは最も避けなければならない。なぜなら、中国に展開する英国が日本の側につくなら、米国船は英国支配下の諸港に寄港できなくなり、物資が絶たれてしまう」
  • 「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著

    1996年の発売以来売れ続けている世界史入門定番の一冊。砂糖の広がりを通じて様々な地域がつながりあい、ダイナミックに変化していくさまが平易なことばとわかりやすい解説で描かれており、世界史の面白さがこれ以上ないほどに詰まっているので、まぁ、読んでいる人の方が圧倒的に多いでしょうが、あらためて紹介しておこうという記事。 書とあわせて記事下に列挙した書籍を参考にしつつ、大まかな砂糖を巡る歴史を概観しておこう。 歴史上、砂糖は西漸しつつ世界に広がった。砂糖の原料であるサトウキビはムスリム商人によってイスラーム世界の拡大とともに西へ西へと伝播し、十字軍によって地中海世界へ、スペイン・ポルトガルによって大西洋諸島さらに新大陸南米へ、イギリスによってカリブ海諸島へと広がりを見せる。この拡大の過程で砂糖は「世界商品」として人びとの生活に欠かせないものとなっていく。 サトウキビ栽培と製糖の特徴として、第一

    「砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)」川北 稔 著
  • 1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史

    スコットランド王国成立前史およそ八世紀頃までにスコットランドには主に五つの民族が定住するようになった。ピクト人、スコット人、アングル人、古代ブリトン人、ノース人である。他にもノルウェー人やデンマーク人なども移住してきており、それぞれ複数の王国、部族に分かれて争っていたが九世紀半ばにスコット人のダルリアダ王ケニス・マカルピンがピクト人を支配下に治め(あるいはスコット人とピクト人の統合によって)アルバ王国が成立し1034年までに諸民族を糾合、十二~三世紀頃までには現在のスコットランドにあたるブリテン島の北半分にはスコット人の王に従う統一王権スコットランド王国が誕生していた。 1066年、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝が誕生すると、スコットランド王国との間で幾度かの戦闘ののち、友好関係が成立した。デイヴィッド1世(在位1124~53)の代に先進的なイングランドの国制に倣って封建制の導入

    1707年グレート・ブリテン連合王国成立に至るスコットランド・イングランド対立の歴史
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    a1ot 2014/09/23
    「隣り合う二国として千年に渡り二匹のヤマアラシは適度な距離を探してお互い傷つけあってきた。これからは針を刺しあうのではなく、自身の針の長さを伝えることで居心地の良い距離を模索していかなければならない
  • 「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで

    「アンネの日記」が何者かの手によって都内図書館で多数破られているというニュースが次々と報じられている(2014年2月)。サイモン・ヴィーゼンタール・センターによる批判を皮切りに海外メディアでも報じられて、国際問題の様相すら呈しつつある。 この事件については当局の適正な捜査を見守るだけだが、これを切っ掛けにふと「アンネの日記」を色々と検索してみると、未だにアンネの日記偽書説がインターネットに広がっているようだ。え?今更?としか思えないのだが、結論から言うと「アンネの日記」は1981年にオランダ国立戦時資料研究所とオランダ国立法科学研究所による科学的調査の上でアンネ・フランクが書いたものと確定している。この件、日ではwikipediaに軽く触れられている程度で、インターネット上にはテキストが見当たらないので、これを詳説したオランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(絶版)をもとに改

    「アンネの日記」真贋論争~偽書説が科学的検証を経て否定されるまで
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    a1ot 2014/02/23
    「ナチズムの正統性を唱えるためにアンネの日記が偽書であるとの根拠のない主張が、例えばホロコースト・ガス室は無かったというような歴史修正主義的な意見とセットでなされてきた
  • 「選挙違反の歴史―ウラからみた日本の一〇〇年」季武 嘉也 著

    「或る地位に就くべき人」を定める方法としては、古来から合議と多数決という二つの方法があった。社会の対立を前提として、そこから「全体的に説得的な結論」を導いて社会の統一をもたらすために、合議は対立の解決より共同体の維持を優先することを「全体的に説得的な結論」とし、多数決は多数が支持していることをもって「全体的に説得的な結論」として対立から統一へと進める。この両方の手法を補い合う形で近代の「選挙」は発展してきた。 江戸時代まで村落の代表者を初めとして地位ある人の選出手法は合議(神判など含め)中心であった日でも近代化の過程で選挙制度が導入されていくことになるが、選挙制度の導入の歴史は裏を返せば選挙違反の歴史ともなる。書は選挙違反の歴史を通して近代日社会の変容を俯瞰する一冊である。 衆議院議員選挙の違反者数の推移の変化を元に、書では以下の五つの時期に分類している。 一期:第一~九回(189

    「選挙違反の歴史―ウラからみた日本の一〇〇年」季武 嘉也 著
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    a1ot 2014/02/06
    「1930年代、官僚組織は名望家秩序の弱体化に成功。その先にあったのは、挙国一致・翼賛体制。翼賛体制下で地方に勢力を張った若手政治家たちが戦後、その地盤を支え合うために保守合同を経て自民党を形成
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