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人生と考え方に関するcildのブックマーク (6)

  • 四十才、夢から醒めて、逃げ場無し - シロクマの屑籠

    bokukuro.com 不定期ですが、リンク先に寄稿することになりました。“不惑日誌”らしく、おじさん話をしようと思ってます。脱-オタクファッションの行き着いた果てや、ファスト風土のおじさんの話もしたいところですね。 それはさておき、こちらは自分のブログなので、勝手気儘に垂れ流して構わないでしょう。 不惑。 びっくりしましたよ、こんなに逃げ場の無いものだなんて。これまでの積み重ねの延長線上として現れた“現実”がどこまでも広がっていて、それがセカイを構成しているんですよ。かつて私は、“現実が追いかけてくる”と連呼して非モテの人達をうんざりさせていましたが、当時、私が言っていたことは四十にして証明されました。やっぱり追いかけてきましたよ、“現実”が。 しかし、私が言っていた“現実”とは、空想的なもの言いでした。良い現実もあれば悪い現実もあり、ラクな現実もあれば塗炭の苦しみもある……そんな風に

    四十才、夢から醒めて、逃げ場無し - シロクマの屑籠
  • 外海で力を発揮できる人、できない人 - もっこもこっ

    私が今いるのは、内海だと思う。 ぬるま湯に浸かっているとも言える。 ぬるま湯に浸かっているので、 「ハングリーさがない」と言われれば、確かにそうかもしれない。 ものすごく好きなこともなければ、 ものすごく嫌いなこともない。 私は白黒つけたがらないところがある。 「曖昧さを愛する」とさえ言ってしまうその感覚は、まさしくぬるま湯に浸かり続けた結果なのではないかと。 ぬるま湯に浸かっていることはよくないことなのだろうか? 「顔つきが変わるほど、苦労しないほうがいい。あまりにも悲惨な体験は人間を信じられなくする。できればそういう経験はしないほうがいい。 人を傷つけて平気な人には近づかないこと。人を傷つける人は言葉巧みで、魅力的であったりすることが多いのだけれど、言葉や魅力に惑わされてはいけない。傷つけられた側は後々まで傷を残すことになる。傷つけられることや口撃に対して我慢しすぎて精神が歪むこともあ

    外海で力を発揮できる人、できない人 - もっこもこっ
  • 「真剣に働くヒモ」になりたい男を罵倒する、心ない女の子へ - ピピピピピがブログを書きますよ。

    2014-11-15 「真剣に働くヒモ」になりたい男を罵倒する、心ない女の子へ 金は稼ぐものではなく、貰うものだと僕は思っている どうして人は働かなくてはいけないのだろうか。  金、女、名誉、権力など目的は様々だが、欲求を満たそうとする過程で間違いなく疲労が溜まる。  僕は昔から、疲れるのが嫌いな人間だ。  今までも精神の磨り減るリスクがあるものから、極力遠ざかるようにして生きてきた。 僕は意識の高い自己啓発に手を触れただけで、精神病が発症してしまう程に頑張るのが不可能な存在である。  だから、「働く為に働いているのさ」と思えるぐらい好きな事だけをして生きようと思う。  その為には、女の子に養って貰い、好きな事だけを追求出来る余裕を生まなくてはならない。  家賃や光熱費、費、その他諸々。  無論、女の子は憤慨してしまう事だろう。 「何なのコイツ。人間の道を逸脱してるね。私が必死に残業し

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  • 生きるために働くのか?働くために生きるのか?生きるために生きるのか? - あざなえるなわのごとし

    僕たちは生きるために働くの?働くために生きるの? - 生きづらいふ 「働くために生きる」っていう価値観は、誰かさんの都合がいいように作った価値観だ。僕たちはそんな価値観に洗脳されちゃいけない。会社に洗脳されちゃいけない。社会に洗脳されちゃいけない。 なんか今は「働いたら負け」とか「自由に生きる」とか「人生を謳歌しよう」みたいなお題目が強くてまるで働くことが悪徳であるかのようにも言われる。 「働くために生活を犠牲にするのなんてごめんだ!」と言う上リンク記事。 「働く」「生きる」とは何だろう。 記事の「僕たちは」と言う「僕たち」の中にウチはいないですが、ね。 【広告】 LIFE? まず「生きる」とは何なのか? ドーキンスのセルフィッシュジーン的な(生物学的な)ところまで視点を落とすなら、「遺伝子を残す」ためにひとは存在している。 コギトエルゴスムな存在理由(レゾンデートル)は全て遺伝子と言う存

    生きるために働くのか?働くために生きるのか?生きるために生きるのか? - あざなえるなわのごとし
  • 自分を低く見積もれば、人生は楽に生きられる - ぐるりみち。

    少し前に読んだ蛭子能収さんの著書『ひとりぼっちを笑うな』のなかで、次のような話がありました。 自分のことを、あらかじめ低く、低く見積もっていたほうが、人生ってラクですよ。 特定の個人と、あるいは集団内の他の人と自分とを比較して、「自分の方が価値が低い」「能力がない」「劣っている」と意識しておいたほうが、楽に生きられる。 「ぼかぁダメな人間じゃあ」と日頃から部屋の隅っこでブツブツと呟いている僕からすれば、とても共感できる話ではありますが、これをそのまま受け取るのもちょっと怖い。 自分にとっては楽かもしれないけれど、それを表に出すとウザがられるんじゃないかしら、とも。卑屈な人間、必要以上に自分を貶める人間に向けられる目線に、あまり良いイメージはありません。自己完結できるかどうか、というのは大切なのかもしれない。 固定化された「最弱」の競争相手 とにかく、自分を低目、低目に見積もっておくんです。

    自分を低く見積もれば、人生は楽に生きられる - ぐるりみち。
  • 自分で選んだことで泣いてはいけない - おうつしかえ

    自分の中で矜恃っていうか、戒めのように思っていることはいくつかあって、その中に「貧乏くさいことはするな」とか「貸したものはあげたものと思え」とか「絶対はない。あるとしたら人が死ぬということだけ」「人に媚びずに生きよ」「誰が言うかではなく何を言うかだ」「過ぎてきた日は全て過去。過去を悔いて自分の過ちを知れ」というようなことを、自分の中で大事にしていたり、行動基準にしています。 誰に強制をするわけではありません。もちろんリアルではそんなことを口にすることもなく、自分の中でひっそりと思っていることです。 その中の1つに「自分で選んだことで泣かない」というものがあります。自分でしたこと選んだことで泣かないこと。自分でしたことを自分で悲しんで泣くことなかれ、と思っています。 [広告] たとえば卒業式や身近な人の死。これは自分が選んだこと、したことではなく、仕方のないことです。起こしてしまった事故は、

    自分で選んだことで泣いてはいけない - おうつしかえ
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