ヒカルちゃん*1にバースデーカード送ったよ、と彼女は笑う。エヘヘと照れたようにほころぶ口元が、目に浮かぶ文字列。今度子供たちも交えてスカイプしよう、うちの子は日本語あまり話せないけど。―――だったらヒカルも同じ、と私もすかさず打ち返す。 そうして、ひとしきり互いの近況や育児ネタに興じた後、まるで世間話のようにさりげなく、彼女は「今だから言える話」を切り出した。「あたし、子どもの頃いつも寂しかったんだよねー」と。 想定外だったのは、結婚しても子どもが出来ても、寂しさから卒業できなかったこと。あたしには父がいない。もちろん、一つ屋根の下で暮した生物学的父はいる。育児にも割と協力的な人だったし、子どもに経済的な不自由はさせない人だった。だけどやっぱり、あたしに父はない。 いじめられて「学校に行きたくない」と言ったとき、彼は学校を休ませてはくれたけど、理由を聞こうともしなかった。助けてくれなかった
『おおかみこどもの雨と雪』を観てきました。おもしろかったです。 劇場に行く前に読んだレビューの中に、「母性が過剰に礼讃されている」「スーパーウーマンとしての母親が賞賛されている」という指摘をいくつか見かけましたが、わたしにはそのようには感じられませんでした。 ネット上のレビューを読むと、本作の評価はさまざまに割れているようです。わたしも、感想を書き留めておこうと思いつつ、なかなか書けずにいました。 花について 花は、おそらく多くの人間の母親(そして父親も)がそうであるように、「最初から完成された母親」などではありません。そして、良くも悪くも「人間らしい」知性をもった母親ならではのさまざまなアンバランスさを持ち合わせています。人によってはそのアンバランスさを不快に感じることもあるだろうと思います。 花のアンバランスさが特に気になるのは、こどもたちの乳幼児時代です。 花は、こどもたち
第6話 父が帰ってきた日 脚本:荒木芳久 演出・絵コンテ:斧谷稔 行田進 無敵超人ザンボット3を全話語ってみる(第6話) これって何か、よくないっスか?/ウェブリブログ ↑ あらすじ 今回は、アニメで家族、特に父親を描くという事に非常に苦心した事が見てとれる良い話だったので、説明する。 よき父・神源五郎 今回、主人公・神勝平の父、神源五郎が遠洋漁業から帰ってくる。彼は非常に理想的な人物である。 それで、ガンダムの家族論やザンボット3ロマンアルバムで、富野由悠季本人が語ったように、 たいへん理想的な家族になってしまった事が、残念といえば残念なのです。 という問題は観測できる。 それくらい、いい男なのだ。 腕っ節が強く、駿河湾の港町の網元として船団のリーダーを務め、乗組員からの信頼もそれなりに篤い。 それでいて、荒っぽい漁師と言うわけではなく、怪獣が来たときなど非常時には自分の事よりも一般人の
こんにちはkobeniです。年末ですね。お仕事や家事育児にいそがしい皆様におかれましても、避けては通れない大仕事の季節がやってきます…そう…嫁という名の、な!お歳暮をやりとりしたり、帰省に向けて色々準備されてる方もいると思います。うちも先日、お義母さんからリンゴが届きました。うちのお義母さんは、リンゴとかお米とか、いろんなものを送ってくれます。特にお米がビックリするくらい美味しいので、いつもとっても助かってます。ですがここだけの話(って全世界の全人類が読めるwebに書いてますが)、「お義母さま…これは…お気持ちはとても嬉しいんですが…ビミョウです」っていう物をもらってしまうこともあります。まぁうちの場合、どっちかというと実母の贈り物もだいぶ変(金太郎がおなかにつけてる「金」て書いてあるやつを、「高かったのよ!息子くんのおなかにつけて!」って渡してきた時はどうしようかと思いました)なのですが
物語はいつも、呆気ないほど微小なかすり傷から始まるものだ。けれど、それが本当にただの<擦り傷>か、あるいは癒えかけた<古傷>の疼きか、それとも真皮に達する新たな<深手>であるか知るのには、少しの時間が必要である。少なくとも私の場合は、そうだった。幼いときから、今になるまでずっと変わらずに。今宵、ここにしたためるエピソードにおいても、それは同じ。深夜の緊急連絡を受けたとき、私は不謹慎にも「あら、終に…」と小さな笑い声すらあげたのだから。 そのとき私は、熊猫(ぱんだ)柄のダンボールが堆積する深山の奥で草臥れ果て*1、折しも発掘した一冊の句集を読み耽っていた。タイトルは『癌め』(江國 滋、角川書店 (1999/04) )。 作家であり評論家であり俳人でもあった江國は、検診で食堂癌の告知を受け、癌センターへ入院。十時間余りの大手術、水一滴飲めぬ苦しさを越え、最期を迎えるまでの半年(187日)間に、
はい、まだマイ・ブームが続いています。「5×3≠3×5問題」 「5×3≠3×5」問題について思ったこと - よたよたあひる’S 「はてな」日記 は、私が全力を尽くして書いた記事(エネルギーの80%くらいは作図に割かれているケド^^)でした! なのに、連れ合いはその図を一瞥して「あ〜、こういうめんどくさい考え方をするやつはいるよね」でおしまい。う〜ん、こいつは私の考え方を理解していないよな、と思って、ちょいちょい話をふっておりました。そして、今日の夕方から夜にかけての大論争の末、ようやく話が通じるようになって今はとても嬉しい。 なんとか説明が通じた後の彼の感想は・・・ 「俺がマジョリティの立場に立つなんてめったにない!レヴィ・ストロースの気分だ!『野生の発見』!」 ということでした。野生じゃなくて異文化でしょ!!なんだかなぁですが、記事にしておきます。*1 連れ合いと私は、「5×3≠3×5」
4歳半になりました。 ごっこ遊びは続くよどこまでも(2010年09月19日) 4歳児「いらっしゃいませーいらっしゃいませー。絵本屋さんですよー(ぱんぱん)(←手を叩いている)」私「くださいなー」4歳児「なんさいですか?」私「34さいですっ」4歳児「この本がおすすめですよ」私「いくらですか?」4歳児「2せんひゃく5ひゃくえんです!」たけーよ #kodomo おはなしもつくる(2010年07月09日) 子供による“かみしばい”「あるひあるひの、むかしのことでした。もりのおくに、おひめさまと、おうじさまがすんでいました。」(昔々のある日じゃないのか)「おひめさまは、いつも、まどのそとばかりみていました。おうじさまが、だめだというのに、いうことをきかないのです。」 #kodomo (承前)「ひめ〜〜〜! おうじさまは、おひめさまを、もとにもどしました」(ちょw)「でも、おひめさまは、おうじさ
父を情けない、恥ずかしい人と思っていました。ずっと。 化学の技術者で、戦中は小田原の軍需工場にいた。陸軍のために防毒マスクや戦闘機の防水布を開発する仕事です。それだけじゃない。僕は中学の頃、父の当時のスケッチを見つけた。「これ何」と聞くと、「潜水用空気袋。試作を命じられた」。米軍上陸を想定し、波打ち際に少年兵を潜ませて捨て身の突撃をさせるためのものでした。僕にとって「特攻」は神風のことじゃなかった。 さらに。父が技術者を選んだのには理由があった。戦局悪化後に工場に入ったのは、軍の作戦に直結するという計算から。徴兵逃れです。戦争で身内を亡くした友だちには絶対に話せない父の過去だった。 戦後は中学の理科の教師になったけど、「教員に落ちぶれた」と平気で言う。教え子に失礼だと腹が立ったし、現実から常に半歩ひいた、この志のない人生への態度は何なんだろうと子どもながらに思いました。 父の生家は東京・大
でも,ここは素敵です。島も人も食べ物も。それを素直に賞賛すること自体に後ろめたさを感じるというのもおかしな話です。前を向いて言えるためには私は何をしようか。 どさくさに紛れてアップしていますが,三食,ソーキ(豚のあばら肉)そばを食べても良いと公言している知人と偶然入って,彼が美味いと唸ったお店のそれです。私ですか? 久しぶりのソーキでした。以前宮古島の名店に連れて行って貰いましたが,そこと比べても互角以上。食べて泣きましたよ。一民家のようなそのお店は地元の人しか食べに来ておりません。 Nikon CoolPix 995 沖縄戦60年の節目,慰霊の日。鎮魂の思いなどに働く深い話も何も出来ませんが,学生時代西表島で通算半年近く過ごしました。沖縄本島にはその度事にいつも数日,滞在しました。自分の興味のあることにしかほとんど目も耳も向かないような脳天気な学生も,何度も通えば戦時中を含めて沖縄,先島
うちにはトドがいた。みなさんの家にも一頭ぐらいいるのじゃないだろうか。床の上で寝入ってしまう生き物が。ぐでーんとか、どどーんとか、そんな感じでふてぶてしく脱力して場所を取っていびきを掻いているやつが。揺すってもなかなか目を覚ましてくれず、うーんとか、ああとか、生返事だけして、結局そのままトドをやめずにトドでいて、トドのままで朝を迎える。とどのつまり、我が家ではリビングの床に寝てしまう人のことをトドと呼ぶ。 今は上京していなくなってしまったが、妹はすごかった。高校時代後半から専門学校時代にかけて、うちの妹はトドの名を欲しいままにしていた。一年のうち、寝所で眠ったのは片手で数えられるかどうかといった数になる。あれの寝台はいったいなんのためにあったのかと思う。横になってソファを占領したり、冬場こたつにもぐっているというのは、まだ格好が付くが、床に寝ころんで深い眠りに落ちている様はまさしくトドだっ
娘はもうすぐ2歳半になります。ますます口が達者になってきて毎日面白いです。 最近よく口にするのが、父や母に向かって「あなた、○○してるじゃない」というセリフ。たぶん保育園で先生によく言われているのでしょうね。最近言われてショックだったのは「あなた、おなか出てるじゃない」……orz。 保育園でのお友達との会話からもいろんなことを憶えてくるみたいで、昨日は「シンケンジャーがね、こわいんだよ……」云々などと教えてくれました。家では観たことないのにね。きっとRくんに教えてもらったに違いないとにらんでいる。 娘の大好きなもの、その1:ショベルカー。 保育園の行き帰り、自転車に乗っていて、工事現場にショベルカーが停まっていると「あ、シャベルカーだよ!」と教えてくれる。1台も見られなかった日には「ねえ、シャベルカーは?」と要求されることも。要求されても困るのだけど。自動車系ではバスも好きで、「あ、つばめ
|雑記| 子供の頃、我が家でカレーライスが食卓へ上るのは、大抵土曜日であったよに想う。*1バーモントの甘口、少々薄目でさらりとしたのは母の好みか。豚コマ、じゃがいも、玉葱、人参が具材の、至極オーソドックスなカレーだ。*2一方、大人だけで構成される父方の祖母宅はジャワカレーで、是は必ず、年季の入った楕円のステンレスのカレー皿によそって出されたものだった。冷水の注がれたコップに匙の入って居るのも、縦四つ割りにしたゆで卵の添えられて居るのも、我が家のそれとは違って居り、その形式美も含めた上で、むしろこちらの方が好きだったのではなかろか。 我が家のカレーライスがいちばんだ、と譲らぬ人の在る一方で、私のよに、他所のお宅の方が好きだ、と云う人も稀に在る。近所に住まって居た同級生のKちゃんの家は、こじんまりした民宿を営んで居り、遊びに行ったついでに、ここではしばしばご飯をご馳走になったものだったが、さす
父は、家族に「頭のなかに陸蒸気が走っている」と揶揄されるぐらいに、昔風の考えを持っており、わたしが知る限り、一貫して男尊女卑の人であった。父はまるで当たり前のことのように、わたしが女であるが故に人として一人前には到底なりえないと否定したので、ずいぶんと長い間、わたしはそのことで父を許せないでいた。 今にいたるまでの間に、わたしは、少しずつ、折にふれて、彼の育ってきた時代、地域、環境について少なからず知識を得てきたので、おそらく、それも、仕方のないことであろうと結論づけているのだが、それでも、今でも分かりあえない部分があることをとても残念に思っている。 一方、父はとても読書好きな人であり、その点では、我々父娘はとても似ており、わたしは10歳を過ぎる頃から、父に内緒で彼の本棚を物色し、その蔵書を読み耽るのを楽しみにしていた。(それは当然、「大人」の蔵書であり、普通に考えれば、10代前半の娘に
実は、今日は父の3回目の命日。いわゆる3回忌である。 ただ、アタシらはアタシらなりの命日と供養の仕方をみんなで決めて、ことさら法要を営むことはない。 それも、人の死は流れの一つ、父のことを思い出すのが供養、と思ってるからだ。 だから、アタシなりにちょっとあの日のことを思いだしたい。 あの日、父は1週間の救急救命センターぐらしの末、かなりあっけなく逝ってしまった。 もちろん、ちょっと危ないと思う、との医師からの説明で義母もアタシも妹も孫たちも集まってはいたが、臨終に立ち会えたのは2〜3人だけだった。 階下の家族控室に呼びに行った人も間に合わないくらい、その死はあっけなく「ちょっちょっと待って!」と叔母は叫んだほどだ。 一番ドライなすぐ下の妹は父が倒れて救急救命センターに運び込まれた時、医師の説明を聞き、一番客観的に「つまり、もう意識は戻らない、脳死と理解していいわけですね。あとは心臓がいつま
精神病の母を持つって、ほんとうにつらい。 人間には、成長するために母や父によって満たされなきゃいけない部分ってのがあって、 でも大人になったわたしは、そこが空白のままで生きている。 理由は上記のとおり、母が脆い心を持っていたからだ。 母は些細なことですぐに動揺し、泣き始め、怒り、かと思えば病的にわたしを甘やかした。 わたしはつねにさびしかったけど、そんな姿を見たら、とても母に何かを望む気持ちは持てなかった。 だからわたしは思春期になっても母に反抗なんてしなかったし、 台所で何か音が聞こえれば、受験勉強中でも飛んで行って母を慰めた。 満たされない何かを抱えて、わたしは大学に進学して、とある人と恋に落ちた。 その人といっしょにいると、とんでもない全能感、多幸感、下品な言葉を使うと「ブッ飛」ぶくらいのやすらぎに包まれて、 心の空白が埋まっていくのを感じた。 それは、初めて「わたし」が無条件に受け
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