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歴史に関するtakun71のブックマーク (27)

  • 葛根廟事件を知ってますか…日本人1千人を殺害したソ連軍の暴虐 「最後」の慰霊祭

    先の大戦末期、満州に侵攻したソ連軍によって日の避難民が虐殺された葛根廟(かっこんびょう)事件の慰霊祭が14日、東京都目黒区の五百羅漢寺で営まれた。事件の生存者らで作る興安街命日会が主催してきたが、高齢化によって解散し今回が最後の式典となった。(大森貴弘) 葛根廟事件は昭和20年8月14日に発生した。旧満州の興安街に住んでいた日の民間人が避難の途中にソ連の戦車部隊に襲われ、1千人以上が犠牲になった。慰霊祭には遺族ら約50人が参列し、お経を読んで慰霊碑に手を合わせ冥福を祈った。 興安街命日会は昭和45年に発足し毎年慰霊祭を取り行ってきたほか、風化を防ぐため事件の証言集なども刊行した。平成13年には現地で法要を実施。中国政府が慰霊碑などの建立を許可しなかったため、テントを広げて仏像を安置した。 代表の大島満吉さん(87)は、会を設立した父の肇さんから引き継ぎ平成14年に就任した。事件で妹を亡

    葛根廟事件を知ってますか…日本人1千人を殺害したソ連軍の暴虐 「最後」の慰霊祭
  • 8割が餓死・病死、倒れたら自決を “地獄”を生きた104歳元兵士の怒り「検証していない」(毎日新聞)

    104歳の中野清香(なかの・きよか)さんは「地獄」を知っている。約80年前、そこにいたからだ。 水たまりに頭を突っ込んで倒れている兵士がいた。まだ生きているのに、誰も助け起こさない。 蛆(うじ)がわく死体の隣で眠っても、死臭が気にならなくなっていた――。 「戦争が終わった時、喜怒哀楽の感情がすっかり抜けていた。今考えると、とても恐ろしい」 子犬の肉球までった 太平洋戦争で最も悲惨な戦場の1つといわれる東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)の戦い。日に戻ることができた兵士は1割もいないとされる。 「い物のことしか頭にない。敵の攻撃も恐ろしくなかった」 イナゴを捕まえて羽をむしり、そのままべた。10センチぐらいのトカゲを火の中に放り込んで口にいれた。山中でちょろちょろと歩いてきた子犬を殺し、足裏の肉球までらいついた。 降伏は許されず、突入して潔く死ぬよう玉砕命令が出た時、銃1丁

    8割が餓死・病死、倒れたら自決を “地獄”を生きた104歳元兵士の怒り「検証していない」(毎日新聞)
    takun71
    takun71 2023/08/04
    こういう戦争の生き証人の方も高齢でどんどん亡くなっていく現実
  • 栗林忠道 - Wikipedia

    栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日[1][注釈 1])は、日の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)[注釈 2]。陸士26期・陸大35期。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。 第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」[4]と評された。 経歴[編集] 陸軍士官学校(1907年) 栗林忠道の肖像画 戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文

    栗林忠道 - Wikipedia
  • ワグネルの反乱 - Wikipedia

    ロシア時間の2023年6月23日にワグネル・グループの創始者であるエフゲニー・プリゴジンがロシアによるウクライナ侵攻について、ロシア国防省の上層部が「でっち上げたうそ」だと主張した上で、この度の「特別軍事作戦」はウクライナでの「非武装化、非ナチ化」が目標だというプーチン政権の説明について否定した[14]。 また、エフゲニー・プリゴジンは「露軍上層部がもたらす悪を止め、正義を回復すると決めた。戦闘員や何万もの露軍兵の命を奪った者は罰せられる。抵抗する者は破壊する。これは軍事クーデターではなく、正義の行進」とも述べていて、ロシア時間の2023年6月24日の未明にウクライナの国境近くのロシア南部のロストフ州に対して、「ワグネル部隊が入った。われわれを止めようとする者は破壊する」とも述べている[15]。 これに対し、ロシアの最高検察庁は、治安機関である連邦保安庁が武装蜂起を呼びかけた容疑で捜査を始

    ワグネルの反乱 - Wikipedia
  • 長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに | 中国の考古学研究チームが調査

    旧満州のハルビン市近郊に拠点を構えていた関東軍防疫給水部部、通称「731部隊」は、人体実験の結果をもとに生物兵器の開発をしていたことで知られる。最近、中国の考古学研究チームが、黒竜江省に残された同部隊の地下研究施設についての報告書を発表。その非人道的な実験の一端を明らかにしている。 中国の黒竜江省文化財・考古学研究所のチームは、第二次世界大戦中、旧日軍の「関東軍防疫給水部部」、通称「731部隊」が生物兵器の開発のために恐ろしい人体実験をおこなっていた地下研究施設を発見した。 施設が見つかったのは、黒龍江省安達市の近郊だ。 長大なトンネルと複数の小部屋 2023年5月、中国の考古学誌「ノーザン・カルチュラル・レリックス」に、この地下研究施設の調査報告書が掲載された。同報告書は、この施設の発見によって、戦争犯罪の新たな証拠が見つかる可能性があると述べている。 「報告書には、いまも残る73

    長大なトンネルに解剖室…旧日本軍「731部隊」最大規模の“地下実験場”内部が明らかに | 中国の考古学研究チームが調査
  • 「もう何も描きたくない」と思った──『ハコヅメ』の泰三子が語る、新連載が8ヵ月遅れた理由 - コミックDAYS-編集部ブログ-

    『ハコヅメ』の泰三子による新連載『だんドーン』がスタートした。日の近代警察を作った男・川路利良の目を通して幕末から明治を描いていく。 この記事は、いわゆる“新連載開始にあたっての著者インタビュー”ではない。昨年10月から連載開始予定だった『だんドーン』がおよそ8ヵ月遅れた理由を、著者の泰が自らの言葉で語りたい、と提案して生まれた記事だ。 理由となった突然の悲しい出来事について、家族について、日々の生活について、気持ちの変化について──泰がどこまでも正直に、正確に言葉にしていくうちに、作家としての姿勢、また作にかける熱い思いが見えてくる。 (取材・文 門倉紫麻) 読者の方に、誠意を持って お話ししたかった 「連載開始が遅れた理由について説明する場を持たせていただきたいです、と私から編集部にお願いしました」 この記事は、『だんドーン』の内容や描くきっかけを語る、いわゆる新連載インタビューで

    「もう何も描きたくない」と思った──『ハコヅメ』の泰三子が語る、新連載が8ヵ月遅れた理由 - コミックDAYS-編集部ブログ-
    takun71
    takun71 2023/06/15
    涙出た
  • ラムセス2世 - Wikipedia

    ラムセス2世(Ramesses II、紀元前1303年頃 - 紀元前1213年頃)は、エジプト新王国第19王朝のファラオ(在位:紀元前1279年頃 - 紀元前1213年頃)である。ラメセス2世と表記される場合もある。 父王セティとの共同統治を経て即位したラムセス2世は、パレスチナ地域の帰属をヒッタイト帝国のムワタリ2世などとカデシュの戦いなどの数々のいくさで争い、エジプト各地に神と自身の業績をたたえる数多くの巨大建造物を築いた。積極的な外征を行い、ヌビアやリビュア、そしてアジアなどにおいてエジプト新王国の勢力圏を延ばした。 外交においては、ヒッタイトのハットゥシリ3世とは世界初の平和条約であるエジプト・ヒッタイト平和条約を締結した。エジプト国内では歴代ファラオの中でも稀にみる在位の長さを誇り、即位して以来約70年間に及んで王権を維持した。 概要[編集] カデシュの戦いでのラムセス2世(アブ

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    takun71
    takun71 2023/06/15
    かっこよすぎる。100人以上の子供
  • 武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない…教科書が教えない「長篠の戦いで信長が勝った本当の理由」 最新の研究が明かす武田軍と織田軍の決定的な違い

    武田騎馬隊の「旧戦法」対「新戦法」の信長という通説 長篠合戦とは、いったいどのような意義がある戦いだったのだろうか。このような問いをわざわざ立てたのは、今も、歴史教育の分野で、長篠合戦は教科書において「(信長は)三河の長篠合戦で多くの鉄砲隊を使って武田氏の騎馬軍団を破った」(『改訂版高校日史・日史Β』山川出版社)と記され、それは、鉄砲3000挺を揃え、その連射(いわゆる「三段撃ち」)により、騎馬攻撃という旧来の戦法を撃破したという構図で語られているからである。 そこには、先見性に富む軍事的天才織田信長が、保守的な武田勝頼の軍勢(兵農未分離で後進的な武田軍)に対し勝利した、という暗黙の理解が横たわっているといえるだろう。 だが、この10年ほどで、織田権力や戦国大名の軍隊編成に関する研究は飛躍的に進んだ。その結果、兵農分離という概念そのものが再検討を余儀なくされ始めている。織田も、武田も、

    武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない…教科書が教えない「長篠の戦いで信長が勝った本当の理由」 最新の研究が明かす武田軍と織田軍の決定的な違い
    takun71
    takun71 2023/06/12
    結局戦争は資源が潤沢な方が強いんだな。太平洋戦争も日本は資源が圧倒的に足りないから、最初から詰んでた気配
  • パラスカちゃんは、お肉になって皿に盛られた…90年前のウクライナで起きた飢餓殺人「ホロドモール」の悲劇 「2505人が人肉を食べた」という記録も

    ウクライナ中部に住むアンナさん(96)が、かつて目撃した「ホロドモール」の悲劇である。 「ホロドモール」とは、1932年から1933年頃にかけてウクライナで起きた悲劇。 数百万人が、飢え死にしたとされ、日語では「飢餓殺人」と呼ばれる。 ホロドモールは、ソ連による過酷な政策が引き起こしたと言われる。当時、工業化を進めていたスターリンは、外貨獲得に躍起だった。5800万トンという、生産可能量をはるかに上回る農作物をノルマに課し、ウクライナに供出させていた。農民たちは、自らべる料までソ連に送り続けざるを得なかった。糧を失った農民たちは、木の根、犬、ミミズ、の革……なんでもべた。人々は累々と倒れてゆき、全滅する村もあった。

    パラスカちゃんは、お肉になって皿に盛られた…90年前のウクライナで起きた飢餓殺人「ホロドモール」の悲劇 「2505人が人肉を食べた」という記録も
  • 牟田口廉也 - Wikipedia

    牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 生涯 軍人官僚として 参謀部に勤務する佐官時代の牟田口廉也 佐賀市(現)で三人兄弟の次男として出生[1]。生家の福地家は鍋島藩の士族として古い家柄で、実父の福地信敬も官吏として公務に就いており、下関条約で日領となった台湾で裁判所書記官を務め、のちに判事に任用された[2]。しかし、家庭環境には恵まれておらず、廉也は後年になって、実父のことをほとんど語ることはなく「兄と私は孤児同様にして育った」と振り返っている[3]。 廉也の実母の生家は、福地家の遠縁にあたる同じ佐賀藩士族の牟田口家であったが[1]、後継ぎがなかったことから、早く

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  • 小堀桂一郎 - Wikipedia

    小堀 桂一郎(こぼり けいいちろう、1933年9月13日 - )は、日ドイツ文学者、比較文学者。 東京大学名誉教授、明星大学名誉教授。専攻はドイツ文学、比較文学、比較文化、日思想史。 人物[編集] 東京出身。ゲーテやホフマンスタール[1] などの近代ドイツ文学研究から出発し、日における独文学受容史などにも手を広げた。 歴史教科書問題などが顕在化した1980年代初頭より歴史認識問題などへの発言を開始し、著名な保守系の論客となる。東京裁判(極東国際軍事裁判)史観を批判しているほか、1990年代前半には林健太郎との歴史認識論争を月刊誌『正論』上で展開した。 政治活動にも積極的に関与し、「日文化会議」(1968年 - 1994年)や、「日会議」副会長、「教科書正常化国民会議」の設立発起人などの立場で政治運動に参与している。21世紀に入り、女性天皇・女系天皇を否認する「皇室典範問題研究会

  • 乃木希典 - Wikipedia

    乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉 - 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日の陸軍軍人[1]。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも知られる。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。人々より「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。 名前[編集] 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した[2][注釈 1]。後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた[4][注釈 2]。 号としては、静堂、秀顕、石樵および石林子を用いた[2]。 軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「

    乃木希典 - Wikipedia
  • 笹川良一 - Wikipedia

    笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日の右翼活動家、社会奉仕活動家[2]。大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)出身。座右の銘は「世界一家 人類兄弟」。 戦前は国粋大衆党総裁、衆議院議員。戦後は、財団法人日船舶振興会(1962年設立。のちの公益財団法人日財団)会長、国際勝共連合名誉会長(1968年就任。のちに辞任)、全日カレー工業協同組合[3][4]特別顧問、福岡工業大学理事長[5]を務めた。箕面市名誉市民。勲一等旭日大綬章受章者。 妾との三男が笹川陽平である[2][6]。日国内の競艇の創設に尽力し、「ドン」の異名を取った。社会貢献活動に使われるべき競艇の売り上げを自身が会長を務める団体等に寄付し、社会活動に使ったが、それによって自身の影響力を保持するやり方が批判された。晩年は「金や

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  • 楠木正成 - Wikipedia

    楠木 正成(くすのき まさしげ、旧字体:楠木 正成󠄁)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自は諸説あり。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。 元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。 生涯[編集] 出自[編集] 楠公誕生地(大阪府南河内郡千早赤阪村) 自称[編集] 建

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  • 「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生” | 文春オンライン

    愛新覚羅氏をご存知だろうか? かつて中国大陸を支配していた「清」という王朝の皇帝の一族である。 もともと、現在の北朝鮮の国境とほど近い地域(現在の撫順市と通化市の間あたり)を拠点とした満洲族(女真族)の首長・ヌルハチがご先祖だ。ヌルハチは1616年に即位し、次代のホンタイジが国号を「大清」に改め、3代目の順治帝の時代に中国土に進出。やがて康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3賢帝の時代に極盛期を迎えた。現在の中華人民共和国の領域も、外モンゴルと台湾を除けばほぼ清朝の範囲を継承している。 清朝は1840年のアヘン戦争を境に衰退し、1911年の辛亥革命で滅びた。ただ、最後の皇帝・溥儀はやがて日の関東軍に利用されて傀儡国家の満洲国の皇帝として即位、戦後は収容所を経て、最後は一般市民として北京市内で没する。このあたりの話は、映画ラストエンペラー』や、溥儀の弟の溥傑に嫁いだ日人・浩の自伝『流転の王妃』な

    「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生” | 文春オンライン
    takun71
    takun71 2022/07/20
    すごすぎぃぃいwww
  • 中国の兵法書ひどすぎワロタ

    六韜三略より 武力によらず敵を撃つ法(武韜)より 「武韜」に書かれている、武力によらず敵を征服する十二の法の概要を紹介します。こららの策を講じたのちに武力にうったえると書かれています。 1.相手の歓心を買うことに努め、敵を慢心させて失策を誘う。 2.敵の君主の臣下を君主と対立させる工作を行い、国家を危機に陥らせる。 3.買収工作によって敵国の側近を掌握し、敵国に混乱を生じさせる。 4.敵の君主を遊興にふけらせるように仕組む。 5.敵の忠臣を君主から引き離して謀略にかける。 6.敵の臣下を懐柔して利用する。 7.敵の側近に賄賂を贈って農業生産を低下させ、穀物の貯えをからにさせる。 8.相手の利益になるようなことをして信頼関係を築き相手を利用する。 9.敵の君主におせじを言っておだて、油断させる。 10.相手の気に入るようにして、十分信頼を得たら、好機を待って攻撃をしかける。 11.高位を約束

    中国の兵法書ひどすぎワロタ
    takun71
    takun71 2022/07/17
    ある意味、悪側の勢力がやってきてることだな。参考になる
  • 安達二十三 - Wikipedia

    安達 二十三(あだち はたぞう、1890年6月17日 - 1947年9月10日)は日の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[1]。 経歴[編集] 1890年(明治23年)、安達松太郎陸軍教授の四男として石川県で生まれ、23年にちなんで二十三と名づけられる。兄に安達十六陸軍少将、安達十九陸軍中将が、義理の叔父に陸軍大臣石新六陸軍中将男爵がいる。石寅三陸軍中将・石五雄陸軍少将は従兄弟。 陸軍士官学校第22期卒業。陸軍大学校第34期卒業。歩兵第12連隊長、第37師団長を経て北支那方面軍参謀長となり、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)11月9日、第18軍司令官に転補される。困難にあたっては率先して苦労を分かち合う態度が部下に強い信頼感を呼び起こした。 第18軍司令官着任時、既にニューギニア方面の制空権制海権は連合国軍に奪われ補給はほぼ途絶し、隷下の3個師団および1個旅団は分断され

    安達二十三 - Wikipedia
  • ファミリーヒストリー記録社|ファミリーヒストリーの調査・記録

    ZOOMによるオンラインでの取材も対応しています。 お急ぎのご依頼はお受けできませんので、ご了承ください。 ファミリーヒストリーの魅力 ファミリーヒストリーとは、家族・一族の歴史です。 古代から現在、そして未来に続く自分に繋がるすべての歴史でもあります。 父と母、父方の祖父母、母方の祖父母 それぞれの住んでいた場所 出会った時代、出会った場所 どんな時代に、何をなりわいとして生きていたのか 今、どうして自分があるのか そう思うことが誰にでも必ずあります。 ファミリーヒストリーを知ることは、つまり今の自分が存在している意味を知ることでもあります。 親のために家系図を作ること、代々一族に伝わる言い伝えを確認すること、珍しい名前の由来を調べること、 自分と一族のルーツを知ること、ご先祖が生きてきた軌跡を残すこと。 これらのことから、調査したそれぞれの人物に迫る資料をお作りすること。 それがファミ

    ファミリーヒストリー記録社|ファミリーヒストリーの調査・記録
    takun71
    takun71 2022/06/15
    ファミリーヒストリーって個人で頼めるんだ。。頼んでみようかな
  • スペインかぜ - Wikipedia

    スペインかぜ(英語: 1918 flu pandemic, Spanish flu、スペイン語: La pandemia de gripe de 1918、gran pandemia de gripe、gripe española)は、一般的に1918年から1920年[2]にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。初期にスペインから感染拡大の情報がもたらされたため、この名で呼ばれている[3][4][5]。アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によるインフルエンザ・パンデミック重度指数(PSI)においては最上位のカテゴリー5に分類される[6]。 全世界で5億人が感染したとされ[7][8]、 世界人口(18億-19億)のおよそ27%(CDCによれば3分の1[9])とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上[10]、おそらくは

    スペインかぜ - Wikipedia
    takun71
    takun71 2020/03/30
    威力が高すぎる。。しかも若い人ほど致死率高い
  • スエヒロ(「週刊戦国ゴシップ」2/1発売 詳しくはプロフ欄で) (@numrock) | Twitter

    ども!会社員をやりながら日史などのパロディ画像を作っています。 NHK番組「信長のスマホ」も手伝ったりしています。2月1日に書籍がでました→ https://t.co/0WgxmRbHtr 色んなご連絡は warapappajp@gmail.com までお気軽に!

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    takun71
    takun71 2017/08/26
    才能にあふれるww