「女、子供に敵は何もしないから君たちは最後は手を上げて出るんだぞ」。沖縄戦の組織的戦闘が終結したといわれる1945年6月23日の直前、当時の島田叡(あきら)知事=兵庫県出身=から掛けられた言葉を胸に、県警察部職員だった山里和枝さん(85)=うるま市=は戦後67年間を生きてきた。島田知事はその後、沖縄本島南部・摩文仁(まぶに)の軍司令部壕(ごう)に向かい、消息を絶った。語り部として戦争の悲惨さを訴え続ける山里さんは言う。「知事は私に『絶対に生きろ』と言ったんです」 45年5月、沖縄守備軍司令部が置かれた首里にほど近い県庁壕に、海軍から県庁職員を看護要員として派遣するよう要請があった。県警察部職員だった山里さんはすぐに応じた。「どうせ死ぬ命。少しでも役に立って死にたいと思った」 だが、たどり着いた海軍壕(豊見城=とみぐすく=市)は「地獄」だった。病棟には薬も包帯もない。治療どころではなく、壕外
「そのうちに回復の見込みのない人も生きているうちに投げ込むようになった」と山里さんは振り返る。「僕はまだ生きているよ。助けてくれ。頼む、頼む、まだ生きているよ」。悲痛な声は今も耳に焼き付いている。 6月初め「県庁から借りた職員は知事の下に返す」と告げられ、知事らがいた糸満市の「轟(とどろき)の壕」に移動した。6月15日か16日、山里さんは壕の入り口で鉄かぶとを肩からさげた知事に出会った。「絶対軍と行動を共にするんじゃないぞ。最後は手を上げて出るんだぞ」。知事は山里さんの肩をたたいて出て行った。 国のために命をささげるつもりだった。「今になって、捕虜になれと言うのですか」。悔しくてたまらなかった。だが、その後、壕に逃げ込んできた日本兵が泣きわめく子供を銃で射殺したのを目撃し、変わった。「友軍なんてこんなものか、絶対に生きてやろうと思いました」。知事の言葉通り、投降して生きた。
知事や県職員を慰霊する摩文仁の「島守の塔」を今月も訪れ、手を合わせた。「なぜ自分だけが生かされたのか」。罪悪感にも似た思いは今も抱き続けている。それでも「戦争の苦しさや悲しさ、悔しさを、もっともっと話してこいと、亡くなった友人たちが言っているのかもしれませんね」。 本土復帰40年を迎えた沖縄だが、基地負担は減らず、墜落事故が相次ぐ垂直離着陸機オスプレイも配備されようとしている。山里さんは言った。「本土での戦いを遠ざけるため沖縄で足止めしておけということで沖縄戦は長引いた。いつまでこの小さな島が苦しめられるのか」【佐藤敬一】 【ことば】島田叡知事 1901年、神戸市生まれ。大阪府内政部長を務め、45年1月に沖縄県知事就任を発令された。単身で赴任し、県民の食糧確保のために自ら台湾に渡ったり、老人や子供の避難策に奔走。沖縄戦では本島南部で消息を絶った。
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