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思想と大塚英志に関するImamuのブックマーク (9)

  • 居場所の文法 - Freezing Point

    神戸芸術工科大学 「メディア表現学科特別講義A 〜ゲスト講師・新海誠氏」 7月1日(水) 14:40〜 司会: 大塚英志(学メディア表現学科教授) ※一般の方の聴講可となっております 聴講し、いい意味でショックを受けて帰ってきました*1。 以下は、私の個人的なメモです。【※発言の引用等については、主催者や発言者の許可はいただいていません。不正確な描写等に問題がございましたら、リンクやメールにてご指摘いただければ幸いです。適宜対応させていただきます。】 講演が新海誠氏(実作者)、司会が大塚英志氏(批評家・教育者)、コメントに川口典孝氏*2(事業家)、そして客席には、作品づくりに人生を賭けようとしている学生たち。 この配役(?)の緊張感が素晴らしかった。 単なる作品批評でも、単なるビジネス論でも、単なる「将来の夢」でもなく、いわば当事者どうしの真剣さの掛け合い。 ほぼ満員の聴衆がずっと聴き入

    居場所の文法 - Freezing Point
    Imamu
    Imamu 2009/07/06
    『作品への印象批評は、「カテゴリー分類とメタ分析しかしない診断」みたい』『不登校もひきこもりも、非モテも犯罪も、逸脱としては凡庸』『最初から「健康な結果」を目指す自意識は、臨床過程をダメにしてしまう』
  • Hang Reviewers High / 新現実 Vol.1

    先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は

    Imamu
    Imamu 2008/06/05
    (ゼロ年代)(ファウスト)(セカイ系)『「ほしのこえ」に代表されるようなセカイ系の物語とは相反するはずの「木更津キャッツアイ」は、物語論のレベルで同列に並べることができている』
  • 『存在論的、郵便的』番外批評

    『存在論的、郵便的』(東浩紀)・『終らない消費社会』(大塚英志) 大塚英志と東浩紀、それぞれの解決 ●大塚英志が示した正統でラディカルな解決方法 要はぼくたちに管理職になるカクゴがあるかどうかである。 『終らない消費社会』(大塚英志) 上記の大塚英志の言葉は92年末にバブル崩壊までを総括したコラム(『スタジオ・ボイス』掲載、『仮想現実批評』収録)でのもの。 もともと、これは大塚英志が属する世代であるところのいわゆる新人類世代にとっての大きな問題提議であり、同時にその解決方法でもある。そして私見だが、解決方法はこれしかないというのが現況の全てであり必要なのだ。大塚英志はここで団塊の世代などとは違ってカチッとした父性を提示する必要を問うている。それは父性あるいは超越的自我の不在にあって、自らはどうあるべきかをラディカルに問うものでもある。 団塊世代がニューファミリーのコンセプトのもと

    Imamu
    Imamu 2007/04/15
    <『存在論的、郵便的』(東浩紀)・『終らない消費社会』(大塚英志) 大塚英志と東浩紀、それぞれの解決>「要はぼくたちに管理職になるカクゴがあるかどうかである」
  • 『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』 - logical cypher scape2

    この記事の目次 外観 装丁や文体(?)に関して 全体要約 書の全体について 「メタリアルフィクションの誕生」との比較 書のもとになった連載記事との比較。特に、削除されてしまった柄谷行人に関する議論について 大塚英志 書と大塚英志の関係 コミュニケーション 書と宮台真司の関係 自然主義的読解と環境分析的読解あるいはポップ文学とメタリアルフィクション 書と仲俣暁生の関係、並びに阿部和重を環境分析的読解する試み メタ物語的な詐術とセカイ系と青春小説オタク」の生を肯定するか否か、あるいはポストモダンの実存文学としてのメタリアル青春小説?? 自分の考えとの接合 個人的なメモに近いが、自分の理論と書の関係 「限界小説書評」「小説の環境」 書に関係する、若手の評論の紹介 外観 書の内容について入る前に、いくつか。 講談社現代新書はリニューアルに伴って明らかに装丁が悪くなったが、書の

  • ゾミ夫(うさちゃんピースを見て飛んでくるUFOが夕日に照らされている) - あいぼん解雇

    http://www.helloproject.com/newslist/kago_0703261829.html ・第1部 「事務所の管理が甘かった」という意見もあるけど、そんなの内情がわからない以上、知りようがない。 「加護がファンを裏切った」という意見もあるが、それだってあらゆるアイドルが裏で何をやっているかわからない以上、加護ちゃんだけを断罪するわけにはいかないだろう。 自分がこの件について心配なのは、 「あー、やっぱり『アイドル』っていうイメージはダメなんだね、世の中に『いらない』ものなんだね」と世間が思うということだ。 どういうことかというと、 大塚英志だったかササキバラ・ゴウだったか忘れたが、かつてのアイドル・岡田有希子の自殺について、 「生身の女の子に『アイドル』というイメージを押しつけすぎたからではないか」と、「アイドルというイメージを押しつける人たち」を批判していた記憶

    ゾミ夫(うさちゃんピースを見て飛んでくるUFOが夕日に照らされている) - あいぼん解雇
    Imamu
    Imamu 2007/03/27
    面白ひ。重要。最重要。「アイドルというイメージを押しつけ」批判or『「アイドル」という「イメージ」はあってもいい』派→『ただ、その役割を担う人間が生きやすいようにした方がいいんじゃないか』
  • 「不死身の身体」から遠く離れて - heuristic ways

    先日、書店で大塚英志氏の『サブカルチャー文学論』が文庫化されているのを見かけ、思い立って購入した。文庫版にして700ページ以上ある大部のなので、ぼちぼち拾い読みしているところだが、「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」という章を読んでいたら、栗薫の『ぼくらの時代』『ぼくらの気持』や新井素子『あたしの中の…』が取り上げられていたので、不意に懐かしさが込み上げてきた。すっかり忘れていたが、私は中高生の頃(1980年代初め)、栗薫さんや新井素子さんのをかなり熱中して読んでいたのだ。もともと私は中学生の頃、星新一や小松左京、筒井康隆や平井和正のSFが好きだったので、その流れから栗薫さんや新井素子さんといった「美人作家」に飛びついたのだと思う。 大塚氏の論考が面白いのは、栗薫や新井素子といった作家の登場を、田中康夫や村上春樹を始めとする「’80年前後に登場した作家にとって領域

    Imamu
    Imamu 2007/03/06
    「資本主義化された企業戦士」→『「不死身の身体」*4へと自分を変えていくほかないように』~「死に至るイデオロギー」-『新井素子さんが「記号的リアリズム」の方法によって「耐えようとしていた」「現実」も』
  • 家族と国家の基礎づけ - heuristic ways

    ■フィンランドの教育と制度改革 内橋克人氏の『悪夢のサイクル』にフィンランドのことが言及されていたので興味が湧き、書店で調べたところ、『フィンランドに学ぶ教育と学力』(庄井良信・中嶋博編著、2005年)という教育コーナーにあった。目次等を見ると、フィンランドの教育システムだけでなく、福祉や社会保障との関連も紹介されているのようなので、購入してみた。まだ断片的にしか読んでいないのだが、いろいろと驚くような制度や事例が報告されていて、実に刺激的だ。 フィンランドの教育がいま国際的な注目を集めているのは、経済開発協力機構(OECD)が実施しているPISA(Programme for International Student Assessment)と呼ばれる国際学力調査で、近年(特に2003年)フィンランドが数学的リテラシー・科学的リテラシー・読解力・問題解決能力いずれにおいても好成績を収

    Imamu
    Imamu 2007/01/14
    「フィンランドの教育と制度改革」と大塚英志『「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男』を組み合わせた素晴らしい文章。
  • 『鋼の錬金術師』のエルリック兄弟はなぜ身体を失っているのかを考えるために-カラスを観る人の日記

    Apemanさんがご自身のブログの中で、「この国は被害者が叩かれやすいのではないか」ということを述べておられる。 http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061130210135/index.htmlが「殺人事件が少ない代わりに自殺が多い社会」であるのは、被害者が自罰に走ってしまう傾向があるからではないか、と何度かここで書いた記憶があります。それはなぜかと考えると、一つには「犠牲者非難」が起きやすい社会だからじゃないか、と思うんですね。「苛められる方にも責任がある」というやつです。もしこの想定が正しければ、「復讐しろ」という主張はモラル保守のマッチポンプですね。 僕はこの見解はかなり的を得ているのではないかと思う。では、なぜこの国では「被害者」が叩かれやすいのか。それは「被害者」であることが

    『鋼の錬金術師』のエルリック兄弟はなぜ身体を失っているのかを考えるために-カラスを観る人の日記
    Imamu
    Imamu 2006/12/03
    ”「被害者」の「欠損状態」は「『欠損状態』を解消する物語」を発動させる””「欠損者」の自己実現物語はそうした「再生産」の秩序に「外部の価値観」を持ち込み、ムラの秩序を破壊してしまうものとして”
  • 通じ合えることと、通じ合える前提の不可視化 - mushimoriのノート

    大塚英志は最近色々な著作や対談で作家の舞城王太郎に言及している。具体的にどういうところに言及しているかというと、「共通語への志向」ということになるらしい。この指摘については僕は舞城の作品を読んでいなかったこともあってなかなか理解できなかったのだが、たまたまこの間読んだ舞城の『阿修羅ガール』の中にそれらしき箇所があった。作中に登場する《天の声》という2ちゃんねるをモチーフにした巨大匿名掲示板の書き込みが延々4ページにわたって描写される箇所である。 「鬼発見記念カキコ」「馬鹿ども!中学生を手当たり次第に車で轢くな!マジです。旧甲州街道大騒ぎ。シャレんなんね〜」「俺も見た。女の子の足片方潰れてた。今調布は超危険地帯。放たれたのは神か悪魔か綾辻行人か!」「誰だ綾辻行人って。つーか記念カキコです」「あ、マジで中学生轢かれてる。ははは」「工房です。厨房に刺されました。厨房殲滅してください。つーか病院ど

    通じ合えることと、通じ合える前提の不可視化 - mushimoriのノート
    Imamu
    Imamu 2006/10/24
    『ネットにおける「通じ合えることば」が単なる「空気読め」』『個々人が抱えるそれぞれの問題(それはある種の「生きづらさ」と言っていいかもしれない)を「社会」という枠組みの中に位置づけなおす試み』
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