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物語と大塚英志に関するImamuのブックマーク (6)

  • 最近気になったものを抜書き - shinichiroinaba's blog

    不可能性の時代 (岩波新書) 作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/04/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 191回この商品を含むブログ (169件) を見る 『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、分析・解釈されているいくつものゲーム小説を通覧することから直観できることは、まずは次のことである。すなわち、オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。(196頁) たぶん

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    Imamu 2009/01/23
    「RPG:敗北=ゲームオーバーbutポルノADV:ゲームオーバー=バッドエンド→すべてのエンドの制覇」『この国の近代的な男性作者は女性の自己実現の物語を好んで描く一方で、男性たちには成熟を留保させる印象が』
  • Hang Reviewers High / 新現実 Vol.1

    先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は

    Imamu
    Imamu 2008/06/05
    (ゼロ年代)(ファウスト)(セカイ系)『「ほしのこえ」に代表されるようなセカイ系の物語とは相反するはずの「木更津キャッツアイ」は、物語論のレベルで同列に並べることができている』
  • 強敵(トモ)とはアイテムである 〜物語における「仲間」とは〜 - マントラプリの生涯原液35度

    さて、前回金剛番長の書評をしたときに述べた命題、 「何故、強敵(トモ)はテリーマン化するのか?」 について考えていきたいと思います。 アイドル番長揃い踏み - マントラプリの生涯原液35度 今回使用するテキストはこちら、 キャラクターメーカー―6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」 (アスキー新書) 作者: 大塚英志出版社/メーカー: アスキーメディアワークス発売日: 2008/04/01メディア: 新書購入: 19人 クリック: 127回この商品を含むブログ (67件) を見るこのは「多重人格探偵サイコ」でお馴染み、大塚英志によって書かれた「キャラクター」創造の手引き書です。大変実用的な内容となっているので興味のある諸兄は手にとってみられるとよろしいかと。 このの中で、大塚は物語を動かすキャラクターの役割を七つに分けています。これはロシアの民俗学者・ウラジミール・プロップの民話

    強敵(トモ)とはアイテムである 〜物語における「仲間」とは〜 - マントラプリの生涯原液35度
    Imamu
    Imamu 2008/05/31
    『固有の人格を持っていると思われる「仲間」は物語の役割から言えば「アイテム」と同じ用途、効果をもつ』
  • 『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』 - logical cypher scape2

    この記事の目次 外観 装丁や文体(?)に関して 全体要約 書の全体について 「メタリアルフィクションの誕生」との比較 書のもとになった連載記事との比較。特に、削除されてしまった柄谷行人に関する議論について 大塚英志 書と大塚英志の関係 コミュニケーション 書と宮台真司の関係 自然主義的読解と環境分析的読解あるいはポップ文学とメタリアルフィクション 書と仲俣暁生の関係、並びに阿部和重を環境分析的読解する試み メタ物語的な詐術とセカイ系と青春小説オタク」の生を肯定するか否か、あるいはポストモダンの実存文学としてのメタリアル青春小説?? 自分の考えとの接合 個人的なメモに近いが、自分の理論と書の関係 「限界小説書評」「小説の環境」 書に関係する、若手の評論の紹介 外観 書の内容について入る前に、いくつか。 講談社現代新書はリニューアルに伴って明らかに装丁が悪くなったが、書の

  • 「不死身の身体」から遠く離れて - heuristic ways

    先日、書店で大塚英志氏の『サブカルチャー文学論』が文庫化されているのを見かけ、思い立って購入した。文庫版にして700ページ以上ある大部のなので、ぼちぼち拾い読みしているところだが、「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」という章を読んでいたら、栗薫の『ぼくらの時代』『ぼくらの気持』や新井素子『あたしの中の…』が取り上げられていたので、不意に懐かしさが込み上げてきた。すっかり忘れていたが、私は中高生の頃(1980年代初め)、栗薫さんや新井素子さんのをかなり熱中して読んでいたのだ。もともと私は中学生の頃、星新一や小松左京、筒井康隆や平井和正のSFが好きだったので、その流れから栗薫さんや新井素子さんといった「美人作家」に飛びついたのだと思う。 大塚氏の論考が面白いのは、栗薫や新井素子といった作家の登場を、田中康夫や村上春樹を始めとする「’80年前後に登場した作家にとって領域

    Imamu
    Imamu 2007/03/06
    「資本主義化された企業戦士」→『「不死身の身体」*4へと自分を変えていくほかないように』~「死に至るイデオロギー」-『新井素子さんが「記号的リアリズム」の方法によって「耐えようとしていた」「現実」も』
  • 『鋼の錬金術師』のエルリック兄弟はなぜ身体を失っているのかを考えるために-カラスを観る人の日記

    Apemanさんがご自身のブログの中で、「この国は被害者が叩かれやすいのではないか」ということを述べておられる。 http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061130210135/index.htmlが「殺人事件が少ない代わりに自殺が多い社会」であるのは、被害者が自罰に走ってしまう傾向があるからではないか、と何度かここで書いた記憶があります。それはなぜかと考えると、一つには「犠牲者非難」が起きやすい社会だからじゃないか、と思うんですね。「苛められる方にも責任がある」というやつです。もしこの想定が正しければ、「復讐しろ」という主張はモラル保守のマッチポンプですね。 僕はこの見解はかなり的を得ているのではないかと思う。では、なぜこの国では「被害者」が叩かれやすいのか。それは「被害者」であることが

    『鋼の錬金術師』のエルリック兄弟はなぜ身体を失っているのかを考えるために-カラスを観る人の日記
    Imamu
    Imamu 2006/12/03
    ”「被害者」の「欠損状態」は「『欠損状態』を解消する物語」を発動させる””「欠損者」の自己実現物語はそうした「再生産」の秩序に「外部の価値観」を持ち込み、ムラの秩序を破壊してしまうものとして”
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