ブックマーク / runsinjirun.seesaa.net (30)

  • 凡人が戦い続けることに意味はあるか・映画「ちはやふる」評 : シンジの“ほにゃらら”賛歌

    凡人が戦い続けることに意味はあるか・映画「ちはやふる」評 映画「ちはやふる」では綾瀬千早(広瀬すず)は最初からポジティヴ天才人間として描かれる。それも外側からの視点で。つまり周囲にいる凡人たちから見た視点でちはやが描かれる。 何の才能もない平凡な高校生たち(つまり私たちのことでもある)がひとりの天才を仰ぎ見るという構図は必然的に物語全体に「苦さ」というものを生じさせる。 競技かるたは才能のある選ばれた者がやればいいのであって、何の才能もない者がやる意味なんてあるのか。勝つ見込みもないのに、なぜこんな苦しい思いをしなければならないのか。 これは大変シビアな問いを私たちに突きつけます。 「才能を必要とされる競技に、才能のない人間が挑む理由はあるのか」 この問いを普遍化するとこうなる。 「何の才能もない凡人が戦い続けることに意味はあるのか」 これが真島太一(野村周平)になると、さらにひどい形容詞

  • 2015年めっちゃ面白かった本ベスト10: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    2015年度ベストBOOKを発表します。ベスト10とありますが、11冊面白かったを紹介します。 11位エマニュエル・トッド「移民の運命」 欧州を代表する知性としてピケティと並んで日のメディアに取り上げられることも多いエマニュエル・トッドが世界中の家族形態を調査して、移民を受け入れる体制が、国ごとの家族形態によって異なることを論証する。それはおおまかに「普遍主義」と「差異主義」の二つに分けられる。この場合ものすごく大ざっぱに説明すると普遍主義とは「人間はみな同じようなもので大した違いはない」という考え。差異主義は「人間は生まれや育ち、環境によってまったく違うものとして存在する」という考え方のこと。トッドは左翼にして愛国者であることを隠しもせず、フランスの形態である「普遍主義」こそがもっとも移民を受け入れる体制としてふさわしいと豪語するのである。普遍主義とはこの場合「同化主義」を意味する。

    mokkei1978
    mokkei1978 2016/03/03
    ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」など。
  • ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。 : シンジの“ほにゃらら”賛歌

    ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」の真の犯人は読者である。 いきなりネタバレから入るので注意。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ」は一部と二部に分かれていて、一部は犯人の書いた小説である。つまり犯人は自分の書いた小説と同じように実際の犯行を重ねていくのである。虚構を現実が後追いしていくというのがこの作品の大きな仕掛けである。 犯人の犯行はすべて現実に存在する小説に描かれた犯罪の忠実な模倣である。 犯人はジェイムズ・エルロイの「ブラック・ダリア」の犯行を模倣し ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ」の殺人を模倣し マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの「刑事マルティン・ベック ロセアンナ」の犯罪を模倣し ウィリアム・マッキルヴァニー「夜を深く葬れ」の事件を模倣する。 犯人は実際に存在する小説を「引用」しながら殺人を実行していくのだ。 作家

  • 私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT : シンジの“ほにゃらら”賛歌

    私たちはPerfumeにはなれないけど「Paul」になるんだよ!WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENT WE ARE Perfume -WORLD TOUR 3rd DOCUMENTをついさっき見たばかりの興奮の真っ只中で一気に書きあげるので誤字脱字悪文ご容赦。 幸せすぎて泣けてくるという稀有な体験をさせてくれる映画。それが作「WE ARE Perfume」だ。 映画の構成的には単純極まりない。ワールドツアーで台北→シンガポール→LA→ロンドン→NYと巡り、番前、番後、各都市で観光を楽しむPerfumeの三人の姿を映し出すだけだ。 ファン目線で見るならば、公演後のダメ出し会議が実に興味深い。ダメ出し会議といってもピリピリしたムードではなく、可愛いかしゆかが可愛いおみ足をモミモミマッサージをしながら、セットリストをあれこれ考えたりするのでファン的

  • 黒沢清論を離れて「岸辺の旅」シュレーディンガーの猫的解釈: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    黒沢清論を離れて「岸辺の旅」シュレーディンガーの的解釈 黒沢清「岸辺の旅」ですが、清が溝口の雨月物語にオマージュを捧げているシーンもあって、いつもの黒沢清論~生と死の境界が曖昧になって・・・・うんぬんをやりたいところですが、もうそれは散々人に語られていると思うので、別の観点から見てみたい。 ストーリー中、浅野忠信が村人相手に量子論を教える場面がある。黒沢清がわざわざこんな場面に量子論を持ってくる以上、そこにはなんらかの意味があると考えざる得ない。そういう仮定を根拠にして岸辺の旅を考える。 量子論で有名なのは「観測者問題」だろう。 観測をおこなう前、物体はありとあらゆる状態で同時に存在する。物体の状態を確定するには観測をする必要があり、それにより波動関数は「収縮」し、物体が明確な状態になる。観測という行為が波動関数を解体し、物体にはっきりとした実体をもたせるのである。-ニールス・ボーアの量

  • 至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か 映画「バクマン。」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か「バクマン。」 目標も夢も何もないごくフツーの高校生が、一転、漫画という夢と希望を発見したときの世界が一気に開ける感覚!その衝撃と感動は何物にも変えがたい光芒として私の網膜に焼きつけられる。当にここは感動するよなぁ。たいていの人は一生を捧げるに値するものなんて何も見つけられずに亡羊と生きていくほかないってのに、この子たちは高校生のみそらでそれを見つけてしまうんだ。有頂天になるのもわかる。 夢に向かって、ただ夢だけを見て駆け上がっていくことの出来る人生というのはそれだけで貴重すぎるほどの宝物だ。 だがプロデューサーの川村元気氏がこの映画を「キッズリターン」(北野武作品)にしてくれと大根仁監督に注文した以上、夢だけを見て駆け上がっていく映画ではなくなるのは当然のことだった。 晴れてジャンプ作家となった二人(佐藤健、神木隆之介)を待ち構えていたのは、恐るべき

    至上の価値は少年ジャンプか小松菜奈か 映画「バクマン。」: シンジの“ほにゃらら”賛歌
  • 全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで 朝井リョウの小説「武道館」は今売り出し中のアイドル「NEXT YOU」のメンバー愛子の心象を追いながらも、実際に作者が書きたいのは、アイドルとそのファンの関係性、アイドル現象もろもろ。つまり「アイドル論」である。 この作品内において描かれるアイドル論やアイドルの抱えている問題の数々は、今現在アイドルムーヴメントの中で語られていることのほとんどを網羅しているといっていい。 たとえばアイドルダイエット問題であるならば、すぐに思い浮かぶのがモーニング娘。の鈴木香音の劇的なダイエットだろう。そうした現実のアイドル事情が作品にダイレクトに反映されている。作者はそうした現実にあるアイドルの問題をひとつひとつ物語の登場人物たちに語らせていくのである。 鈴木香音ダイエット前後 アイドルの体型、ダイエット問題に対しては作者(の声を借りた登場

    全ハロヲタに問う。アイドルは人間か・朝井リョウ「武道館」を読んで: シンジの“ほにゃらら”賛歌
  • きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語~地下アイドルに恋して~を見て: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語~地下アイドルに恋して~を見て 2015年7月5日放送ザ・ノンフィクション中年純情物語~地下アイドルに恋して~を見た。 内容は秋葉原の地下アイドル「カタモミ女子」にはまる中年男性の姿とアイドルの女の子たちを描いたもの。カタモミ女子はアイドルといっても日ごろはお客さんの肩をもむというアルバイトをしながらアイドル活動をしているという特殊な形態のアイドルだ。番組は53歳独身のアイドルファン「きよちゃん」とカタモミ女子のメンバーりりあを巡って繰り広げられる。 きよちゃん53歳独身。この人がまたいい人なんだよ りりあちゃん。この娘さんがまたいい子なんだ。自分がお店にいると、きよちゃんに余計なお金を使わせてしまい心配だというのである。おっさんもファンになったわ! この番組を見てなぜこんなにもつらく悲しい気持ちになり、激しく心揺さぶられたまま今に至るのか。(

    きよちゃんへ。ザ・ノンフィクション中年純情物語~地下アイドルに恋して~を見て: シンジの“ほにゃらら”賛歌
  • トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性・ボナパルティズムとは何か?: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    トクヴィル「フランス二月革命の日々」の現代性ボナパルティズムとは何か? 1848年のフランス二月革命、6月事件、翌年の6月反乱の激動の時代。政治思想家であり、政治家であり、当時の外相でもあったアレクシス・ド・トクヴィルが自分の見たもの、経験したことだけを冷徹なまでに観察、分析する、面白すぎて鼻血ものの一冊。2014年度シンジのベスト1でもあります。 トクヴィルがこれを書いたのが1851年ごろなので、ものすごくHOTな経験を時間を置かずに即座に書いたことになります。にもかかわらず、その筆致は冷静で客観的。今読んでも恐ろしいほどに激動のフランスを捉えていてトクヴィルの異常なまでの観察眼と分析力にうならされます。 なぜここまでトクヴィルが冷徹なまでに人々を観察しえたのか。それは彼がなんとしてでもフランスの共和制を守ろうとしたがゆえに、敵と味方をすばやく的確に見分ける必要があったためでもあります。

  • 神木隆之介愛あるいはすべての映画はアイドル映画である「るろうに剣心京都大火編」をめぐって: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    神木隆之介愛あるいはすべての映画アイドル映画である「るろうに剣心京都大火編」をめぐって 真の純粋な愛とは、愛される側のものの完全性と幸福とを知ることの内に喜びを味わう状態のこと。ーライプニッツ「理性に基づく自然と恩寵の原理」 正直前作にはあまり感心しなかった私が続編である「るろうに剣心京都大火編」を観に行った理由はひとつしかない。 “大天使”神木隆之介サマを見るためである。 今私にとって最も重要なアイドルは℃-uteでもなければ、Juice=Juiceでもない。・・・神木隆之介である。 男として考えてみれば自明のことなのだが、女性アイドルは「アイドル」としては弱い。なぜならそこには応援したいという気持ちの奥底のどこかにゲスい「性欲」みたいなものが蠢いていることが否めないからだ。 ようするに男が女性アイドルをいちファンとして無心かつ純粋に応援することは不可能で、そこにはかならずいわゆる「ガ

    神木隆之介愛あるいはすべての映画はアイドル映画である「るろうに剣心京都大火編」をめぐって: シンジの“ほにゃらら”賛歌
  • 乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    乗り越える物語としての映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」 「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」を観る。非常に恐ろしい映画でした。この映画を観る人のほとんどはひろし、それもロボとーちゃんであるロボひろしの立場に立って見ると思うのですが、この映画はロボひろしの地獄巡りの様相を呈しているので、見るものにとってはドキリとするような恐ろしい描写にあふれています。 まず最初にドキリとするのはロボットとなって家に帰ってきたひろしに対するみさえの態度です。体が、外見が違うというだけで心は100%ひろしにもかかわらずみさえはロボひろしを激しく拒絶するのです。外見が違うだけでもう「ひろし」は「ひろし」でなくなる、「わたし」は「わたし」でなくなるのです。つまり「わたし」という自己同一性を保障してくれるのはわたしの「心」や「精神」や「意識」などではなくて、他者の目からうつ

  • 「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    「やおい」としての映画・もらとりあむタマ子 やおい、という言葉がある。「ヤマなし(山場なし)、オチなし(落ちなし)、イミなし(意味なし)」という意味だ。来は同性愛をテーマにした漫画などのことを総称してやおいというが、ここではその語源のとおりの意味合いで使用する。 山下敦弘の映画「もらとりあむタマ子」にはすがすがしいまでに「やおい」である。ヤマもなければ、オチもなく、意味・・・は少しある。といっても主人公がモラトリアムを脱するというテーマは映画を終わらせるための方便でしかなく、山下や脚の向井康介が人がモラトリアムから脱することの重要さを訴えたかった(笑)などあるわけもない。 やはりこの映画は「やおい」である。映画の作劇法としての「やおい」がなぜすがすがしいかというと、映画が「単線的」ではないということにつきる。「単線的」とはブレヒトの言葉で 一切を一つの理念に組み込み、観客を単線的な思考

    mokkei1978
    mokkei1978 2013/12/15
    こっちも前田敦子推し。"様々な感情が交差するシーンでの前田の演技の独創性は一見の価値がある。"
  • 特別なものなどなにもない。吾妻ひでお「アル中病棟」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    特別なものなどなにもない。吾ひでお「アル中病棟」 吾ひでお「アル中病棟」を読む。 何がすごいって、これだけ悲惨な状況にもかかわらず、自己憐憫なし、自己絶望なし、ルサンチマンなし。「わたくし」漫画にもかかわらず自己言及をサラリとかわして自己も他者も、はては死すら等間隔に描く。 「わたくし」小説なり漫画なりになると、自分だけが特別な存在であり、憐れな存在であり、そんなかわいそうな私を疎外するのが無理解な他者や社会であるという風になりがちである。 しかしそんな自己憐憫、自己嫌悪、ルサンチマンといった、「わたし」「私」「自分」「自己」で埋めつくされる「わたくし」系の陥穽をヒラリといともたやすくかわしてしまうのが吾ひでおである。 吾は「わたし」と「あなた」をまるで同じようなものであるかのように描く。アルコール中毒患者の人々はみな愚かで滑稽な人々ではあるのだが、吾は誰一人としてわけへだてする

    mokkei1978
    mokkei1978 2013/10/16
    "すべてものを等間隔に見つめ描くということは必然的にすべてのものに対する価値、貴賎、好悪を度外視して描くということになる。"
  • 映画ごっこを越えて「ジャンゴ」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    「(タランティーノ)映画はすべてごっこ遊びでしかないのだ」ー柳下毅一郎(映画秘宝3月号ジャンゴ評より) タランティーノ映画を言い表すのにこれ以上の言葉はないだろう。タランティーノは自分の好きなジャンル映画をひたすら模倣し、コラージュする「映画ごっこ」遊びの達人である。そしてそんなタランティーノ映画を見て喜んでいる私たちはタランティーノが砂場で泥(映画)をこねるのを取り囲みながら夢中になって見ている子供みたいなものだ。つまりタランティーノマニアは映画の中の物語を楽しむのではなく、映画におけるタランティーノの手癖を見て楽しんでいるのだ。これはメタ的な映画の観方といえるだろう。 ウンベルト・エーコの文学理論で「モデル読者」と「モデル作者」という考え方がある(「エーコの文学講義」)。モデル読者とは物語の中に入り込み、その物語に疑いを向けない読者のこと。例えば物語に出てくるネズミやカエルが人語を話し

    mokkei1978
    mokkei1978 2013/03/21
    "ジャンゴにとっての敵は一人ではなく、白人全員、すなわち当時のアメリカ社会全体である。これは途方もない恐怖と絶望を呼び起こす。"
  • キャラが勝手に動き始めるということ「ザ・レイド」 : シンジの“ほにゃらら”賛歌

    インドネシアのアクション映画「ザ・レイド」を見て思うことなど 格闘技や喧嘩は体のでかい奴が圧倒的に有利だ。敵役であるちっこいおじさん(マッドドッグ役のヤヤン・ルヒアン。以降親愛を込めて、ちっこいおじさん)はその体の小ささ、体重の軽さから戦う相手に抱えられてヒョイヒョイ投げられる。観る方としてはそのたびにヒヤッとしてしまう・・・ってこれどう考えても逆ですよね。正義のヒーロー側に感情移入して見なければいけないはずなのに、この敵役のちっこいおじさんの一挙手一投足にハラハラして見入ってしまう。 このちっこいおじさんが体格の圧倒的なハンデをどう克服して戦うのか。そのことに注視してしまって、自然にちっこいおじさんの側に立って映画を見てしまうのだ。これはあきらかに映画の意図せざるところだろう。 映画の意図としては圧倒的に強い敵にどうヒーローが立ち向かうかを見て欲しいわけだし、主人公の立場に立って客も一緒

    mokkei1978
    mokkei1978 2012/12/04
    "監督もこのちっこいおっさんがあまりにも魅力的なので、敵役はヒーローを引き立てなきゃいけないという原則を忘れているようにしか思えない。"
  • Hunter x Hunter論 メルエムはイエスである: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    冨樫義博「Hunter x Hunter」30巻を読んであまりにも深く、激しく動揺してしまう。それはそこに感情移入していた登場人物の死が描かれているからというわけではない。ここには「悲しい死」ではなく、もっと別のことが描かれている。そこに描かれているのは・・・ 「メルエムはイエスである」 ー このことである。 おかしなことを言い出す奴だなと思われるかも知れません。いったいメルエムのどこがイエスだというのか。私はイエスを「イエス」たらしめているのは三つの愛だと考えます。メルエムはそこに重なるのです。 「イエスの三つの愛」 その一。「贖罪の愛」いけにえ性としての愛 イエスはほとんどいいがかりのような罪をきせられ、無残にも十字架上で処刑された。一時はイエスをメシアと持ち上げた民衆からは足蹴にされ、イエスを慕った弟子たちもみなイエスを裏切った(裏切ったのはイスカリオテのユダだけではない)。十字架に

    mokkei1978
    mokkei1978 2012/04/25
    そうなのか。
  • 黒沢清「贖罪」論: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    黒沢清ドラマ「贖罪」全五話を見て、一話から五話まですべて傑作という偉業を前にただ呆然とする。黒沢清すごい!とひれ伏すのみ・・・では芸がないので自分なりにこの黒沢清という世界トップクラスの映画監督にぶちあたって砕けてみたいと思います。 「贖罪」とは神学用語では罪をあがなうこと。罪をあがなえば救済されることを意味する。いうまでもなく我々人間の罪を自らの死をもってあがない、すべての人間に救済をもたらしたのがイエス・キリストである。 つまり贖罪とはただ「罪をあがなう」ことだけを意味するのではなく、神の恩恵=救済があってはじめて贖罪が成立する。 ではこの世界に神が存在しないとすればどうなるのか。それが黒沢清「贖罪」の根幹にある。 神が存在しない、神が死んだ世界では恩恵などどこにもない。はじめから救済などないのだ。救済などはじめからないにもかかわらず、何の罪もない少女たちに贖罪を迫る麻子(小泉今日子)

    mokkei1978
    mokkei1978 2012/02/07
    "黒沢清の「不穏」とはなにか。それは物語と情景描写を超える表現が画面上で展開されていることを意味する。"
  • 正義はすべてに先行する「電人ザボーガー」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    映画「電人ザボーガー」を見た。 子供の頃テレビで「電人ザボーガー」を見た記憶はうっすら残っている。しかしどういう話だったのかは、まったくおぼえていないので、ザボーガーをはじめて見る人と同じ感覚で見た。つまりノスタルジーのまったくない状態で見た。だからこの文章に思い出補正は一切かかっていません。なにが言いたいのかというと、思い出補正がかかっていなくてもこの映画は傑作だといいたいのです。 この映画はおもちゃを手にした子供が部屋を散らかすように、楽しいお遊びや、脱線であふれている。井口昇監督やスタッフの楽しげな顔が浮かんでくるようだ。 だが、この作品は三池版「ヤッターマン」のような背骨が抜けた、ふぬけた映画とは根的に違う。 この映画はいい年した大人たちのノスタルジー込みのお遊び映画のような見せかけとは違い、作品自体をぶっとい芯がつらぬいている。井口昇監督の明確な狙いのある脚というしっかりした

    mokkei1978
    mokkei1978 2011/11/10
    ネタバレあり。"正義は法に、規則に、慣習に、文化に、伝統に先行する。映画「電人ザボーガー」に即して言えば、正義は愛や血族といった制度や慣習にも先行し、それを超越する。"
  • 暴力は映画に何をもたらすか・冷たい熱帯魚をめぐって: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    「冷たい熱帯魚」を見て映画が過去100年以上にわたって描いてきたものの正体を見る。 日映画最初の劇映画は1899年製作駒田好洋「ピストル強盗清水定吉」という日初の拳銃強盗事件を題材にした実録映画であり、アメリカ映画最初の劇映画は1903年製作「大列車強盗」(The Great Train Robbery)であるのをみてもわかるとおり、映画はその起源から暴力を描いてきた。 しかし映画で描かれる暴力に対して嫌悪感を持つ人は多く、それだけで映画を受けつけないという人もいる。たしかに暴力は嫌悪すべきものです。しかし多くの人が映画の暴力描写への嫌悪を表明するだけにとどまり、嫌悪の先にあるものを見ようとしない。 なぜ人はそこまで暴力を嫌悪しながら、映画史の起源から今現在に至るまで暴力を題材にした映画を止むことなく作ってきたのか。そのことを考えることは映画質を、ひいては人間の質を考えることにつ

    mokkei1978
    mokkei1978 2011/03/29
    "映画史の起源から今現在に至るまで暴力を題材にした映画を止むことなく作ってきたのか。"
  • 共感を超えた映画体験「海炭市叙景」: シンジの“ほにゃらら”賛歌

    映画「海炭市叙景」を見て救われた気持ちになった。 映画は海炭市に住む4つの家族に寄り添いながら淡々と進む。そこで描かれるのは今の私たちの似姿。断絶し、理解し合えない家族の姿であり、停滞し、窒息しそうな街の姿だ。不思議なのは、そんな暗くじめじめした映画にもかかわらず見ていてすごく救われたこと。 一体この自分の不可思議な気持ちはなんなんだろうと。自分と同じようなみじめな境遇の人々を見て溜飲が下がったとでもいうのか。そんな卑しい気持ちが自分にあったのか?いや、違う。映画を見ていて最も心が満たされ、救われたのはどこだったか、はっきりと思い出せる。 路面電車がすべるように動き出した瞬間に私の心はスクリーンの中に入っていき、映画の中で何の関わりもなかった人々が同じ路面電車に乗り合わせたり、すれちがったりするその時、何か突然、救われた気持ちになったんだ。 それは決して自分と同じようなみじめな人々の境遇に

    mokkei1978
    mokkei1978 2011/02/21
    "言葉で説明のつかない感覚と感動に満たされる瞬間がある。"