1956(昭和31)年、広島の爆心地に建つ原爆資料館で、3週間にわたって開催された「原子力平和利用博覧会」。 当時の1年間の来館者に相当する11万人が訪れ、原子力エネルギーがもたらす明るい未来に歓声を上げた。 実はこの博覧会は、原爆犠牲者や遺族の魂が込められた遺品などの展示物を一時的に資料館から近くの公民館に移して開催されたものだった。 被爆の記憶がまだ生々しい時期、核廃絶を誓う「聖地」でなぜこのようなことが可能だったのか? 背景にあるのは、日本の反核運動に危機感を持ったアメリカが被爆地ヒロシマで展開した情報文化外交。その内実を明かす史料が出てきた。 米国務省から広島アメリカ文化センター館長として派遣されたアボル・ファズル・フツイ氏が残した手記や公文書には、核の恐怖を取り除き、「平和利用」への理解を取り付けるためにあらゆる手段を講じた様子が詳細に記されていた。 一方、博覧会にさまざまなかた