実家暮らしは恥ずかしいことじゃない。むしろ、平凡なる民にとって自由に使えるお金と時間を最大化するのに最も効率的な手段である。 読んでほしい人生活がカツカツで苦しい、節約がしたい。実家に戻りたいけど世間や周りにどう思われるのか?馬鹿にされたり、嘲笑されたりするのが不安だ。 既に実家暮らししてるけど、周りから取り残される感じがして劣等感がある。 今回の記事はそんなふうに思っている人向けの記事にする。これから話す2つの大きなメリットを知れば実家暮らし恥ずかしいだなんて思わずに最大限活用すべきだと気づく。 1.自由に使える時間の最大化実家に戻れば親や兄弟がいる。一人暮らしをしている場合、あなたが今まで仕事でストレス溜めて疲れた状態で帰ってきた後も家の雑務をしなければならない。その時間を圧倒的に減らすことができる。 なぜなら、両親や兄弟などがやってくれるからだ。それに家事、掃除、洗濯、請求書の支払い
少し前のことだが、友人が経営する会社の幹部会議に参加した時のことだ。 「いつまで昔の意識を引きずってるんや!」 「環境に適応することを意識せんと、ホンマに生き残れへんぞ」 そんな言葉で、部課長たちを叱責する友人。 メモを取っている幹部も何人かいるが、明らかに納得感のある顔をしていない。 そのため会議後、友人から感想を聞かれた時にこんなことを答えた。 「そうやな…、率直に言ってスマン。あの内容では時間の無駄やと思った」 不機嫌そうな顔をする友人だが、構わず言葉を続ける。 「まあ聞けや、理由は2つや。抽象的な指示をしたところで人の行動は絶対に変わらんぞ。『環境に適応することを意識しろ』って、具体的に何しろっていうねん」 「……」 「それから、こっちのほうが問題なんやけど、お前本当に、環境に適応することが大事やと思ってるんか?」 「当たり前やろ、それはさすがにムチャクチャな意見やわ」 「ムチャク
「口の立つやつが勝つってことでいいのか」 [著]頭木弘樹 何かしらざわざわ騒ぐ春のこころに、差し出されたようなエッセー集だ。タイトルに思い当たることがあれば、なおさらである。 ゆったり文字の組まれた本の顔つきはやわらかく、全編を通して伝えること、生きていくことのままならなさが切実につづられている。ただし四隅のねじはゆるみなく、著者は理詰めで社会を俯瞰(ふかん)している。 記者としての自分は、「うまく言えないことの中にこそ、真実がある」という始まりから、うなだれてしまった。「言葉にできない人のほうが魅力的」と続いて、もう降参だ。 言葉にしないと始まらないのが記者。聞いて書くことで、かろうじて世の中に立たせてもらってきた。言葉を持っている人に出会った日、わいてくる幸せよ。なのに「言語化できないことがある」と語る著者に、圧倒的な説得力がある。 「能力が正当に評価されないのは、いいことではない」が
エッセイ連載の第26回目です。 (連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります) 取材って、その分野で成功している人や、その世界にディープに入りこんでいる人にしがちだけど、それって、学校について学校の人気者に聞くようなことになってないかな? という疑問が…… 心だけでも旅しようと思ったら 旅行記が苦手だとずっと思っていた。 入院中、お見舞いで旅行の本をよくもらった。 病院のベッドの上で身動きできないのだから、せめて本で旅を楽しんではどうかということだ。 なるほどと思って、ありがたく読んでみた。 ところが、あまり面白いと思えなかった。 インドに行って、老人が黙ってすわっている横顔に崇高さを感じたり、アフリカで動物の目を見つめて気持ちが通じ合ったように思ったり、オーストラリアのエアーズロックで啓示を得たり……。 同じ病室の人から、昔は暴走族で派手なケンカをしたという話を延
売上〇兆円くらいある日系企業の代表取締役を長いことやってた 父親と喋ってて不思議だったんだけどマジで立憲民主やれいわ新撰組の議員のこと異様に嫌いすぎてる。 「親父がビジネスマンという立場的に彼らを到底受け入れられないってこと?」 と俺が尋ねたら 「いや、肩書きを取っ払った1人の人間として大嫌い。心底軽蔑してる」 どうやら、利害の舞台から離れたらノーサイド、というわけでは決してないようだった。 年寄りになってすっかり丸くなった父親が恐らくほぼ面識ない政治家に対して強い嫌悪感を抱いているのは正直異様だと思った(ちなみに「自民党以外にまともに政権任せられる党なんてねえじゃん」とも言っていた)。 あくまで人品骨柄が許せない、大嫌いなんだと言っていたので 「じゃあ維新の議員も論外?」 と俺が問うたら 「なんで?維新の議員はまともじゃん。俺、維新に変な奴いる印象ないんだけど…」 と言うので仰天した。
ペアになり、双方で10ドルずつ所持し、それぞれカネを出し合う。出した金額の1.5倍を互いに等しく受け取ることができる。例えば、双方が10ドルずつ出し合えば、最終的に手元に残る金額はともに30ドル。片方が0ドルで、もう片方が10ドルならば、前者が25ドル、後者が15ドルとなる。ともに1ドルも出さなければ、双方の手元に10ドルが残るだけだ。 このゲームを行った京都先端科学大学特任教授の西條辰義氏が解説する。 「このゲームでは相手がどの金額を出しても、自分は10ドル出すことがベストな戦略になります。出した金額の1.5倍は確実に返ってくるからです。しかし、10ドルよりも少ないおカネを出すことで、自分のもらうおカネが減るものの、相手よりも多くのカネを得ようとしたのです。この結果に驚きました」
「イジられキャラはいじられることでコミュニティの仲間入りができるのだから恩恵であり、いじり芸は肯定されるべきでは」という意見が複数。 この主張、私から見るといくつもの点で粗雑に過ぎるように思う。その点を考えてみたい。 まず、最大の過ちは「いじり」という屈辱的な形でしかコミュニティに入れないと前提しているその発想の貧困さ。 私の教え子で長年不登校状態だった引きこもりの子が。その子は当然、人の輪に入るのが超苦手。しかし一念発起して北海道に一人旅に。安く泊まれるライダーハウスに入った。 隅っこで小さくなっていると、一緒に食事しよう、と誘われた。ライダーハウスのルールだと聞いてその子は渋々参加した。ところが、とても居心地がよかったという。無理に発言を求められることもない。でもその場にいるみんなが、話の輪のメンバーとして自分を認めてくれている安心感。 その子はすっかり北海道を気に入り、ホテルの裏方の
ビートたけしに始まり、ダウンタウンが引き継いだ「いじり」という手法は、集団を「嗤(わら)い」で支配できるということを子どもたちに示してしまった面があるように思う。 頭の回転がよく、言葉巧みな強者は、特定の人間を「いじられキャラ」に仕立てることで嗤いを生む。この場合、 いじられキャラと目された人間は、他のポジションを要望する自由を奪われる。もし拒否すれば、「笑いがわかってない」「せっかくお前が主人公になれるようにしてやったのに」と恩着せがましさを見せながら相手を罵り、それでも拒否するなら集団から排除する。「おもんねーヤツ」とレッテルを貼って。 こうした強者は空気を支配するのがうまい。大学のサークルの新歓コンパで、そうした先輩がいた。新人に自己紹介をさせたあと、ビールを何杯も飲ませて酔い潰させていた。さて、私の番。ビールを飲み干し、コップを頭の上で逆さにし、「あー、うまかった」と言ってそのまま
「官邸主導」は結果的に、日本の大学の頂点である東大の存在意義を大きく揺るがしてしまったように思う。 東大は明治維新以来、日本の支配システムの要であり続けた。特に戦後は法学部が官僚になる登竜門となった。田中角栄はうまく官僚を使いこなし、政策を作らせた。それが「型」となった。 東大法学部を出て官僚になれば日本を動かせる。そのやりがいが多くの若者を東大にひきつけた。 しかし官邸主導、政治主導の名のもとに改革が進むと、官僚の魅力が地に落ちた。特に安倍政権下で辣腕をふるった菅官房長官は、気に入らなければ官僚トップも次々左遷した。 その結果、安倍政権に都合のよい政策を口にする官僚しか出世できなくなった。しかもそうした政策は、政治家の思いつきでしかないものが少なくなかった。そうした思いつきにそれらしい化粧を施す官僚が抜擢され、出世した。そのままでは日本がダメになる、と直言した官僚は、次々スポイルされた。
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