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経典とあとで考えるに関するgimonfu_usrのブックマーク (2)

  • 黙想の祈りとテオリア: 極東ブログ

    黙想の祈り(Contemplative prayer)に関連するを読み考えながら、ぼんやりと見えてきたものがある。気にかかっているうちにブログにメモしておこうかと思う。思うままに書くのであまりまとまったものにはならないだろうが。 黙想(Contemplation)とは何か? なぜそれがキリスト教において意味があるのか? 疑問の答えとは言えないまでも、いくつか書籍を読みながらぼんやりとした形が見えてきた。逆に言うと、なぜこの疑問がこれまで自分にとって、うまく浮かび上がってこなかったか?としてもよい。それは自分が接したキリスト教からは、そもそも見えづらいものだった。私と限らず近代が結果的に覆い隠してしまった面もある。 私自身を例にすると、接触したキリスト教には三つの面があった。一つは日の近代化や敗戦に伴うプロテスタンティズムである。この伝統こそ黙想の祈りを覆い隠してしまうことが多い。クエー

  • [書評]禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明(エレーヌ・ペイゲルス): 極東ブログ

    聖書には含まれていないイエス・キリストの教えが存在するとしたら、どう思うだろうか。キリスト教徒なら「そんなのは悪い冗談でしょ。聖書は聖霊の導きで書かれているのです」と答えるかもしれない。だが、聖書に含まれている、イエス・キリストの生涯を記す4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)以外に、当のイエス・キリストが語った言葉を収録する別の福音書がかつて存在し、そしてそれが今の聖書に収録されている四福音書よりも真実を伝えるとしたら、どうだろうか? いや、何をもって「真実」だというのかという議論にもなるかもしれない。書、「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」(参照)は、その問題を質的に扱っている。 訳の表題「禁じられた福音書 ― ナグ・ハマディ文書の解明」は日人に向けてよく練られている。確かに書では、現在のキリスト教からは禁じられた、異端の福音書が議論されている。キリスト

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