きっとあなたはこの記事をクリックすることはない。その理由を説明しよう。内戦転落から7年がすぎたシリアからは、惨状を伝える記事や画像が発信され続けているが、SNSでのシェア数は世界的に激減している。終わりの見えない戦闘と市民の悲痛な叫びに対して、世界の人々の関心は薄れてしまったのだろうか。 ほとんど暗闇といっていい地下の防空壕に身を寄せ、爆撃から身を守る。後ろで子どもたちが行き交う気配がする中、22歳のヌール・アダムは動画を撮りながら、みずから画面に向かって話す。「子どもたちはここで食事をし、眠り、ここで生活しています。他に行く場所はありません。外では空爆が続き、建物と町が破壊されています」 その後、毎日、より広く世界の人々の目にとまってほしいという思いから、砲弾の飛び交う地上へ出て建物の屋根に上り、インターネットにつないでTwitterに動画を投稿する。これまで数百回かそれ以上、繰り返して
「桜花」――まもなく満開となる桜のことではない。戦時中の日本軍の非常さを象徴する、生還不能の特攻兵器につけられた名である。大型爆弾に操縦席と翼、ロケットをつけ、母機から放された瞬間に搭乗員の死が約束されるこの兵器は、敵の米軍にとって理解不能だったようで、彼らは「Baka Bomb(馬鹿爆弾)」と呼んでいた。 この兵器を発案した男は、終戦直後に死亡したとされたが、生存説もささやかれ、長らくその消息は謎に包まれていた。だが、5年前、遺族から神立さんへ一報があり、戦後、別人として生きてきた詳細な軌跡が判明する。 「特攻兵器『桜花』の生みの親」という過去を消し去って生きた男は、どのような後半生を送っていたのか? 特攻兵器「桜花」の初陣は全機撃墜された いまから74年前、昭和20(1945)年3月21日午前11時20分。鹿児島県の鹿屋海軍航空基地から、「神雷(じんらい)部隊」の異名をもつ第七二一海軍
◆ 戦時中っていえば、ジャズが禁止されてたってことかな 小林 この8月11日で86になりました。やんなっちゃいますよ。後期を超えて「末期高齢者」だって言ってるの(笑)。 ――今日は小林さん自身と「寺内貫太郎」の戦争体験、戦後をお伺いしたいと思っています。 小林 あのドラマをやったのは、僕が41歳のときでしたね。昭和49年か。相当前ですね。 ――1974年ですから、44年前です。 小林 それで今年は戦後73年でしょう。そりゃあ、戦争を経験していない方々のほうが世の中には多いわけだ。それはそれで、怖い世の中ですよ。 疎開先のお寺にオペラのレコードがありましてね ――小林さんは13歳で終戦を迎えられていますが、戦時中のことですぐに思い出すことって、どんなことでしょうか。 小林 そうですね、ジャズが禁止されたってことかな。あれはアメリカ、「敵国」の音楽だからダメだった。ハワイアンもダメね。クラシッ
実母(右)とおばとの再会を果たした当時の写真を掲げる元中国残留孤児の中島幼八さん。東京の自宅で(2015年7月14日撮影)。(c)AFP/Yoshikazu TSUNO 【8月14日 AFP】東京に住む元中国残留孤児の中島幼八(Yohachi Nakajima)さん(73)は、中国人の養母や、かつて故郷と呼んだ農村に思いをはせ、涙をこらえる──。 第2次世界大戦(World War II)が終結した1945年8月15日、中島さんは当時3歳だった。終戦で、満州(現在の中国東北部)には約150万人の日本人が取り残されたといわれている。 日本がアジアにおける勢力拡大を図るなか、1930年代初頭から農業従事者や労働者、若い予備兵が国策の一環として満州へと渡った。中島さんの父親も満州に移住した日本人の一人。しかし、開拓団としての生活は悲惨なもので、敗戦直前に軍隊に召集され、その後の消息は分かっていな
三浦瑠麗氏 集団的自衛権の行使容認は、戦後安全保障のコンセンサスから一歩踏み出した転機であった。リベラル陣営は日本を「戦争ができる国」にしようとしているとして安倍政権を非難する。反対論の多くは、国民の意思とは別に法律家の解釈を守ることで政府の手を縛り、結果的に平和を達成するという発想に基づいている。だが、実際の軍事介入の判断は民主主義のプロセスを通じて行われるのだから、民主主義を否定する形での平和論は脆弱なばかりか民主主義を弱くする危険をも秘めている。そろそろ日本にも民主主義が平和に資する判断を導くための議論が必要なのではないだろうか。 翻(ひるがえ)って現代の米欧世界では、安全保障論議を巡る構造はまるで違う。そこでは、人道や民主主義の理想に基づいて積極的介入主義を取るリベラルなタカ派と、伝統的な安全保障観を有し介入に懐疑的な保守派が対峙している。そこで行われている主要な戦争は、二〇〇三年
多くの関係者や沖縄県民が参列した大田昌秀さんの告別式=15日、沖縄県浦添市 12日に亡くなった元沖縄県知事の大田昌秀さん(享年92)の告別式が15日、沖縄県浦添市のいなんせ会館で行われた。琉球大教授時代の教え子、政治経済界や市民団体の関係者、一般県民など約1500人が参列した。 家族ぐるみで長年の交流があった元副知事の比嘉幹郎さん(86)が弔辞を朗読し「大田さんは全ての人々に戦争の愚かさと平和の尊さを認識させるために人生を送った。大田さんの人物像を表現すると『平和の使徒』だと思う」と述べ、功績をたたえた。 大田さんが92歳の誕生日に病室でハッピーバースデーの歌声を聞きながら永眠したとの訃報に接した際の心境について、比嘉さんは「驚きと悲しみに耐えなかった」と言葉を詰まらせながら振り返った。 遺族を代表し、おいの山里馨さん(65)は「昌秀おじの92歳の誕生日で、ハッピーバースデーを聞きながら静
文/内山 節(哲学者) パリのアラブ人街にて パリに足を伸ばしたとき、私には一度は必ず出かける場所がある。そこはベルヴィルという地区で、昔は貧しい労働者たちが暮らすパリの場末の町だった。 ルネ・クレール監督の映画『天井桟敷の人びと』の舞台になったのもこのあたりで、映画のなかでは貧しかった娘が金持ちの家に嫁ぎ、豪邸のベランダに立って遠くにかすむ労働者の町の灯をみながら、あの暮らしの方が人間的だったと振り返るシーンがある。 私がこの地区に出かけるようになったのは35年ほど前で、その頃はアラブ人街になっていた。フランスは主として1960年代に労働者不足を解消するために外国人労働者を呼び寄せた。彼らはフランスの底辺の労働をにない、パリの最下層の町で暮らすようになった。いまにも崩れ落ちそうな3階建てくらいの古い建物が並ぶ場所だった。 だがここでのアラブ人たちの暮らしは長くはつづかなかった。1980年
パリであった出来事を知ったのは事件から10時間経ってから。仕事が忙しくてニュースを見ておらず、そしてびっくりした。一番気になったのはパリに住んでいる友人たちの安否で、皆が大丈夫だと知って安心した。 そして、色々と情報を見るなかで見つけたIndependentのチャートに考えさせられた。2013年において、テロで亡くなった16,245人のうち、どの人たちがいちばん亡くなったのかについて示している。一位のイラクでは5000人以上が亡くなっている。 もちろん、悲劇は比較するようなものでもなくて、「アラブ諸国で殺されている無実の人がより多いのだから、西側諸国は黙れ」みたいな言説はおかしいと思う。そういうのはとても嫌いだ。悲劇の本質のひとつは比較不可能性にあると僕は思う。 とはいえ、声の大きい人々の間で起きた悲劇が大きく伝えられる一方で、全く代弁もされずクローズアップもされず死んでいく人(殺されてい
Protesters rally outside parliament to oppose new laws that could see troops engage in combat for first time since WWII. Organisers said about 120,000 people took part in Sunday’s rally in the capital [Reuters] Tens of thousands of protesters have rallied outside Japan’s parliament to oppose legislation that could see troops in the officially pacifist nation engage in combat for the first time sin
※イメージ 元熊本県知事、第79代首相の細川護熙(もりひろ)氏は、戦後70年の談話(安倍談話)について持論をこう語る。 * * * 私の祖父の近衛文麿は、亡くなる前の晩に次男の通隆に宛てて遺書のようなものを残していますが、その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っています。先の大戦は侵略戦争であったということを裏付けるような発言です。当時その責にあった人がそう言っているわけで、その言葉は重く受け止めざるをえない。 だから首相に就任した1993年8月の最初の記者会見で記者の質問に答え、先の大戦について侵略戦争だったと、間違った戦争だったと認識していると、首相として初めて明言しました。私が言わなかったら村山談話も小泉談話もあそこまで踏み込んだものにならなかったかもしれません。それまで歴代の総理は、戦争を通じて多大な損害を与えたことに対する真摯な反省の気持ち
中途半端な英語使いが英国からのニュースを東京で読み、あちこちふらふらうろうろ。時々嘘。 はてブ = http://b.hatena.ne.jp/nofrills Twitter = http://twitter.com/nofrills Twitterのログ = http://twilog.org/nofrills ◆「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月) ◆「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月) ◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください
死闘2カ月余の玉砕 大破した旧日本軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)=2015年3月1日、パラオ・ペリリュー島【時事通信社】 南北9キロ、東西3キロ。フィリピンの東、パラオ諸島南西部に位置する隆起珊瑚の小島ぺリリュー島は、太平洋戦争における日米両軍の激戦地となった。ぺリリュー島と隣のアンガウル島には、日本海軍の主要な飛行場があり、その軍事的な利用価値から、フィリピン奪還を目指して太平洋を北上する米軍にとって、本格的な進攻作戦の前に手中に収める必要があった。 日本は、増援部隊として精鋭と呼ばれた満州の関東軍を転用することにし、昭和19(1944)年4月、第14師団をパラオに派遣。このうち、ぺリリュー島には歩兵第2連隊、第15連隊第3大隊などが送り込まれた。 日本の守備隊は、海軍部隊も含め約1万人。これに対する米軍は約4万人の兵力で、怒涛(どとう)のように押し寄せ、上陸作戦を展開した。米海兵隊が上陸
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