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三国に関するkubodeeのブックマーク (3)

  • 曹洪と曹仁 (2012/1/1 3:17) - 思いて学ばざれば

    曹洪がいつも小物扱いされてて萎える。 武帝時代の後半はたしかに曹仁の活躍が大きかった。しかし前半は曹洪のほうが存在感が重かった。というのも、曹丕が借財を申しいれるほど曹洪の家は裕福だったから、曹操の挙兵は、かれの財力あればこそ可能なのだった。徐栄に敗れたあと募兵をかけて勢力を恢復したのも、すべて曹洪の力である。 曹仁曹洪 190豪傑たちが一斉蜂起したとき、曹仁もまた密かに若者たちと結んで千人あまりを手に入れ、淮水・泗水の流域を駆けずりまわった。*1(豪傑並起,仁亦陰結少年,得千餘人,周旋淮﹑泗之間。 太祖に従って別部司馬となり、厲鋒校尉を兼務した。(從太祖為別部司馬,行厲鋒校尉。)太祖が義兵を起こして董卓を討伐したとき、滎陽にいたって董卓の部将徐栄に敗北した。太祖は馬を失ったが、曹洪が馬を太祖に授けた。帰還して譙に逃れた。(太祖起義兵討董卓,至滎陽,為卓將徐榮所敗。太祖失馬,洪以馬授太祖。

    曹洪と曹仁 (2012/1/1 3:17) - 思いて学ばざれば
  • 泣きの劉備 - 枕流亭ブログ

    三国志の異名?教えてください(教えて!goo) 彼は人に同情される事が非常にうまく 劉備の土地は全部泣き落としたと当時から陰口を叩かれ 泣きの劉備と呼ばれたという記述が正史にあります。 「泣く劉備と笑う曹操」という評は知っているのだが、「泣きの劉備」という異名が正史にあったとははじめて知った。正史のどこに書かれているのか教えてほしい。 『演義』の劉備は実によく泣く男である。泣くだけ泣いたあと、劉備はこの関羽・張飛の遺児を先鋒隊として呉に出撃したが、結局、陸遜の周到な計略にひっかかって大敗北を喫し、意気消沈して白帝城で落命するにいたる。(井波律子『三国志演義』岩波新書P122) 『演義』では、先述したように、劉備がことあるごとに泣くのに対し、曹操は乱世の姦臣だといわれては笑い、華容道のピンチでも、ギリギリになるまで諸葛亮の手配りの拙さを笑いつづけるなど、実によく笑うのである。泣く劉備と笑う曹

    泣きの劉備 - 枕流亭ブログ
  • 曹操の不思議 - てぃーえすのメモ帳

    曹操の一族のことを考えてみると、不思議なことにぶち当たる。 たとえばこんな感じ。 まず、曹操には実弟が居たはずなのにやたら影が薄い。 父と共に徐州で散ったからかもしれないが、なんかその名前さえ定まっておらず、どうにも不思議な感じ。 母の一族は皇帝でいえば外戚であり、この手の覇業では同姓の血族と共に極めて重要な役目を果たす場合が多いのだが、曹操の場合はどうも影が薄い。 (そもそも曹操は生母が不明) じゃあいなかった(活躍しなかったのか)というと、曹嵩(曹操の父)の正丁氏と同じ丁姓の者が曹操の覇業を助け、あるいは中枢に加わっている。なんか関係ありそうだがどうもはっきりしない。

    曹操の不思議 - てぃーえすのメモ帳
    kubodee
    kubodee 2009/08/24
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