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中国史に関するkubodeeのブックマーク (3)

  • 孔子さまの言葉

    ◆巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)なし仁(じん) 「心にもないおべっかを使ったり、顔色をつくろったりする者には、当に他人に誠実な者は少ない」。それに、そういう人間は途中まではうまくいっても、どこかで必ず化けの皮がはがれるゾ。 ◆学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。 以前に読んだをあらためて読み返してみると、こんないいことが書いてあったのかと再発見することがたびたびあって、とても嬉しい。志を同じくする友だちが遠方からやって来るのもまた嬉しく、人生の楽しみの一つだ。 ◆過ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ。 「過ちをおかしたときは、すぐ改めよ。少しも遠慮する必要はない」。分かっていても、簡単なようでなかなか難しい。とくに立場や地位の高い人ほど、憚ってしまう。 ◆過ちを改めざるこれを過ちという。

  • 曹洪と曹仁 (2012/1/1 3:17) - 思いて学ばざれば

    曹洪がいつも小物扱いされてて萎える。 武帝時代の後半はたしかに曹仁の活躍が大きかった。しかし前半は曹洪のほうが存在感が重かった。というのも、曹丕が借財を申しいれるほど曹洪の家は裕福だったから、曹操の挙兵は、かれの財力あればこそ可能なのだった。徐栄に敗れたあと募兵をかけて勢力を恢復したのも、すべて曹洪の力である。 曹仁曹洪 190豪傑たちが一斉蜂起したとき、曹仁もまた密かに若者たちと結んで千人あまりを手に入れ、淮水・泗水の流域を駆けずりまわった。*1(豪傑並起,仁亦陰結少年,得千餘人,周旋淮﹑泗之間。 太祖に従って別部司馬となり、厲鋒校尉を兼務した。(從太祖為別部司馬,行厲鋒校尉。)太祖が義兵を起こして董卓を討伐したとき、滎陽にいたって董卓の部将徐栄に敗北した。太祖は馬を失ったが、曹洪が馬を太祖に授けた。帰還して譙に逃れた。(太祖起義兵討董卓,至滎陽,為卓將徐榮所敗。太祖失馬,洪以馬授太祖。

    曹洪と曹仁 (2012/1/1 3:17) - 思いて学ばざれば
  • 義帝時代の封建の傾向 - gurenekoのメモ(終活中)

    中華歴史において、南方を根拠に天下を統一した人物と言えば、熊心(義帝)・朱元璋(洪武帝)・孫文・蒋介石の四人ぐらいしか思い浮かばない。しかも後三者の時代の華南が既に地理的にも生産力の観点からも既に中華世界の辺境ではなくなっていた点を考慮すれば、義帝による統一が如何に空前絶後の偉業であったかが解るであろう。 ただしまた彼は、朱元璋の様な功臣粛清の才覚が無いために項籍の台頭を招き、孫文の様な北方の実力者に地位を譲る現実感覚も無いために項籍に命を狙われ、蒋介石の様な何所までも逃げて抵抗する粘り強さも無かったために、終に四人の中で最も悲惨な最期を遂げたのである。 今回の題は、義帝時代に項籍の主導で行われた諸王の封建の傾向である。 項籍の封建は身内贔屓の杜撰なものであったとしばしば言われ、また実際に田栄・陳余の実力を見誤っていたのは事実としか言い様が無いが、それでもある種の計算は見て取れる。 ま

    義帝時代の封建の傾向 - gurenekoのメモ(終活中)
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