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ブックマーク / c57115.hatenablog.com (13)

  • 賀来 - 転轍器

    久大線久留米~大分間は昭和9(1934)年11月15日に全通した。大分側の大分~小野屋間はそれよりも早い大正4(1915)年10月30日に、私鉄大湯鉄道として開通している。その後大正11(1922)年12月1日に国有化され、鉄道省大湯線となった経緯がある。 国鉄時代末期に賀来駅を訪れていた。片面1線の交換不能の配線であるが、行止まりの貨物側線が画面手前大分寄りから分岐していた。その名残りの貨物ホーム跡がこの時まだ残っていた。貨物ホームの後ろに大きな農業倉庫が建っていたので農産物が出荷されていたものと思われる。 久大線賀来 S61(1986)/5 キハ58246〔分オイ〕先頭のキハ53が間に入った4輛編成。 621D 久大線賀来 S61(1986)/5 撮影時、50系の客車列車は大分口で3往復、久留米口で4往復が運転されていた。朝の豊後森発大分行客車列車は蒸機時代から続いている。 62

    賀来 - 転轍器
    maicou
    maicou 2024/04/18
    おおお。すばらしい。九州の鉄道はいいですよね
  • 久大本線のオハニ36 - 転轍器

    オハニ36は急行用で車内設備はスハ43と同等であった。久大線に来る前は京都~都城間の急行“日南”や門司港~西鹿児島間の夜行“みやざき”で颯爽と走っていた。 オハニ3615〔分オイ〕 大分運転所 S59(1984)/1/17 私の国鉄時代は蒸気機関車の終焉、路面電車・旧形客車・急行列車・貨物扱い・専用線・荷物列車・特定地方交通線の廃止など、雲消霧散の歴史であったように思う。新しいものは「そのうちいつか」に対して、日限を切られた廃止関連はせきたてられるように撮影に動いた記憶がある。とりあえず撮っておいたネガはプリントや整理が追いつかず、後年デジタル化の際に「こんなものを撮っていたのか!」と改めて新しい発見があったりする。旧形客車終焉の際に撮っていた座席荷物合造客車はオハニ36とわかり、改めて以前に撮った久大線客車列車の写真を見直すきっかけとなった。 久大線蒸機時代はオハユニ61とオハニ6

    久大本線のオハニ36 - 転轍器
    maicou
    maicou 2024/04/16
    本物のオハニだ!めっちゃ貴重
  • 路面電車があった九州の中心地 西鉄福岡市内線 - 転轍器

    568貝塚行は循環線祇園町で千鳥橋方へ進路をとる。画面右は呉服町へ向かう。後方は国鉄博多駅ビルがそびえている。 西新行68は博多大丸を背景に呉服町から貫線に入る。 千代町は貫線と循環線が交差する。手前が循環線千鳥橋方で、2054貝塚行の後方に貫線が横切る。画面右が天神方、左が九大前方である。 城東橋電停は大牟田線の平面交差を挟んで画面手前左に西新方面乗場、電車が停まっている所が渡辺通一丁目方面乗場で離れていた。城南線で体験した鉄道線と軌道線のクロスする重たい音と振動が蘇ってくる。 貫線大手門電停近く。木々の向こうに平和台球場の照明灯が見える。あの西鉄ライオンズはこの時は太平洋クラブ・ライオンズだったかな。 西新は貫線と城南線が合流する。雪でぬかるんだ軌道を連接電車が行く。『北に札幌あれば南に福岡あり、どちらも日で連接電車を重用した主要都市』は「わが心の路面電車(上)(小林茂著/プレスアイ

    路面電車があった九州の中心地 西鉄福岡市内線 - 転轍器
    maicou
    maicou 2024/03/28
    福岡市内の路面電車。ばりすご
  • 栄枯盛衰唐津線 笹原峠 - 転轍器

    久保田と西唐津を結ぶ唐津線は筑紫山地の西端に沿って走り、多久と厳木の間に立ちはだかる笹原峠は難所であった。サミット手前の笹原トンネルは石炭輸送の増加を見込んで複線断面で掘られている。 多久を出た下り西唐津行は国道203号線を乗り越すと、笹原トンネルまで19.2‰の上り勾配が続く高さのある築堤を踏みしめて登る。 727レ 唐津線多久~厳木 S48(1973)/8 県庁所在地へ向かう朝の客車編成の輸送力列車は大概の線区ではその日の夕方に折返す場合が多いが、唐津線の場合は西唐津発佐賀行の朝の通勤通学列車は佐賀到着後直ちに折り返して西唐津に戻り、日に1往復の客車列車は午前中で終わりとなる。 パイプ煙突の39659〔唐〕が客車7輛を従えて多久を発車する。緩やかな下り坂を小城、久保田と進み、長崎線に出て一路佐賀を目指す。下りホームは佐賀発西唐津行朝2番の気動車列車が見える。上り722レ7:19発、下

    栄枯盛衰唐津線 笹原峠 - 転轍器
    maicou
    maicou 2024/03/20
    唐津線。ばりよか。九州の鉄道すばらしい
  • 栄枯盛衰唐津線 岸嶽 - 転轍器

    ~岸嶽間4.1Kmは時刻表では唐津線の表記であったが、「岸嶽線」や「唐津線岸嶽支線」の呼称の方が分岐線なのでしっくりとくる。石炭産業の盛衰に翻弄され、蒸気動車も走った特異な線区であった。 岸嶽線の気動車を捉えた貴重な写真と出会って感激した。サボは楷書体で駅名電略は「ヤモ」と記されている。サボは運転区所ではなく駅に所属するので山駅の管理と思われる。キハ30は東唐津の筑肥線管理所の車と思ったが、昭和44(1969)年と48(1973)年の配置表で探すとどちらも直方の記載で驚きであり意外であった。 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7 美しいキハ30が1線だけになった岸嶽に停車している。運用は山~岸嶽間8往復で、朝最後の仕業は岸嶽発東唐津行で車庫入り、午後再び東唐津発岸嶽行として夕方の仕業に就く。 キハ3024〔門カタ〕 岸嶽線岸嶽 S45(1970)/7 岸嶽駅は明治45(1912)年1

    栄枯盛衰唐津線 岸嶽 - 転轍器
    maicou
    maicou 2024/03/20
    こんな支線があったのかー。筑肥線はいいよな。
  • 由布 - 転轍器

    久大線のシンボルはやはり由布岳。別名「豊後富士」の双頭峰をバックに走るは名門急行“由布”がよく似合う。“由布”は昭和36年10月に準急として誕生、その後幾多の変遷を経て九州横断ラインの雄として君臨する。昭和56年10月時点で博多~別府間3往復が運転され、下り1号は日田~由布院間で快速“日田”2連もしくは4連併結、下り5号は大分~別府間普通列車で運転された。 603D“由布3号” 久大線由布院~南由布 S57(1982)/1/16 “由布”の変遷を簡単にふり返る(国鉄時代)。 ・昭和36年10月 準急“ゆのか”の補完列車として誕生(博多ー日田ー別府ー門司港) ・昭和37年10月 運転区間 博多ー日田-別府ー小倉(北九州循環) ・昭和41年3月  急行格上げ(ゆのか・西九州・日田・はんだと共に) ・昭和42年10月 日田~由布院“日田”併結 ・昭和43年10月 “ゆのか”(博多ー日豊ー大分

    由布 - 転轍器
    maicou
    maicou 2024/02/15
    めっちゃいい。やっぱり九州と関西は鉄道王国だわ。
  • 三角点描 - 転轍器

    三角線は歴史ある路線で、島原や天草への航路連絡として九州鉄道によって明治32年12月に開通、三角駅はその時に開業した駅である。この時期の九州線は現在名で言うと、鹿児島線は八代まで、長崎線は早岐・大村回りで浦上まで、日豊線は柳ヶ浦まで開通していた。伝統ある駅の出口から低い階段を降りると狭い駅前広場は海岸に面し、潮の香りと歴史ロマンあふれるエキゾチックな雰囲気が漂っていた。  三角線三角 S59(1984)/1/11 給油で立寄ったガソリンスタンドで三角港を一望できる高台の民宿を紹介された。三角港の夜景を楽しんでいたらちょうど熊発三角行539Dが到着したところで、車内灯が煌々と輝き辺りを明るくしていた。編成はキハユニ26+キハ47+キハ28+キハ47+キハ58の三角線では長い5連であった。 三角線三角 S59(1984)/1/11 早朝の三角港は冷たい澄んだ空気が漂っている。風情ある港町の駅

    三角点描 - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/09/18
    ミスミには行ってみたかったんだよなあ。いつか行くか。
  • マニ36雑感 - 転轍器

    自分が撮ったマニ36の事は「荷物車・郵便車の世界ー昭和50年代のマニ・オユの記録ー」(クリエイティブモア/平成15年10月刊)によって掘り進めていくことができた。この書籍は改造で生まれたマニ36達のその前歴と背景、複雑な経緯や区分、形態等が詳細に解説されて、それは奥深い趣味の審美眼を磨くにふさわしい参考書といえる。各車のデータ(種車・改造年・形態等)は同書を引用した。 マニ362038〔北スミ〕 種車/オロ35格下げスロフ432002 改造/昭和41年幡生工場 形態/丸屋根 アルミ窓枠 台車/TR23コロ軸受 荷物扉の窓が開いている。保護棒も見えないので下降式で開閉できるのだろうか。床下は蓄電池箱・水槽・エアータンク・給水栓と検水栓のコック等がよくわかる。 門司 S57(1982)/8/18 マニ3682〔門モシ〕 種車/スロハ32格下げスハ50118 改造/昭和42年土崎工場 形態/丸屋

    マニ36雑感 - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/09/18
    マニは見てたはずなんだが記憶がほとんどなく。なので大変ありがたいです。
  • 東京急行電鉄田園都市線の思い出 - 転轍器

    手元にある多摩田園都市20周年記念乗車券4枚組は昭和50年7月、旗の台駅発行であった。当時の田園都市線は大井町からすずかけ台まで開通していた。切符の図柄は青葉台駅前「風見の鶏」を背景に3000系・こどもの国線3400形・オールステンレス7000形・最新鋭8500形が配置されていた。裏面は40円区間:溝の口~長津田間開通は昭和41年4月1日、60円区間:こどもの国線開通は昭和42年4月28日、90円区間:つくしの~すずかけ台間開通は昭和47年4月1日、110円区間:8500形就役は昭和50年2月20日と年代順に記されている。 切符袋表面。 切符袋裏面は多摩田園都市の説明が記されている。 昭和49年春、上京して初めて降り立った駅は華やかな山手線目黒駅であった。そこから緑色一色の3輛編成の電車に乗り、今来た山手線の線路を見下ろしながら急勾配を下り大岡山という駅で下車する。今度は同じ緑色であるが少

    東京急行電鉄田園都市線の思い出 - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/09/18
    東急。すばら。
  • 網走湖畔 急行“大雪9号”編成の普通列車 - 転轍器

    湖畔の宿は網走湖が見える絶好のロケーションだった。雪原のように見える凍結した網走湖畔をDD51の牽く客車列車が姿を現した。 よく晴れた朝、湖面に作られた木々の影と樹氷のような湖畔の立木が美しいコントラストを織りなしていた。列車は朝日に照らされた雪煙を上げて快走する。 郵便車はマニ36だろうか。スユニは旧形からスユニ50の新鋭が付いている。寝台車はオハネフ12かな。 寝台車は2輛だけだ。時刻表の編成案内では寝台車3輛となっているのでどうしたのだろうか。 札幌発網走行517レ急行“大雪9号”は北見から普通列車となり列車番号は1527レと名前を変えていた。 石北線呼人~網走 S55(1980)/3/18

    網走湖畔 急行“大雪9号”編成の普通列車 - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/09/18
    すばら。編成がわかるのがよい。
  • 日田彦山線 県境の残映 - 転轍器

    久大線を始めとして各地の沿線で四季折々の鉄道風景を撮り続けておられる大分市の渡邉邦治さんに「古き良き時代」に撮った日田彦山線の写真がないかお願いした。押入れを探してやっと出てきたという写真は驚くかな、賑やかで活気溢れる夜明駅と山峡を跨ぐ宝珠山橋梁が写っていた。貴重な記録を年代順に並べてみると、日田彦山線が通る福岡県と大分県の県境の情景を思い浮かべることができた。私にとって感動の光景、憧れの場面で、写真発掘していただいた渡邉邦治さんに感謝申し上げます。 国鉄時代の夜明駅は蒸機時代の名残りが垣間見える駅舎と嵩上げされていないホーム、それに貨物側線も健在であった。朝の賑わいが伝わる2番線はDE101133〔大〕率いる鳥栖発豊後森行629レ、向かいの3番線日田彦山線ホームは日田発小倉行728Dがアイドリングしている。629レは7:46着7:47発、728Dは7:42着7:51発なので2の列車が

    日田彦山線 県境の残映 - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/09/18
    すばらしすぎる。九州のこういうのはあまり見ないので大変貴重。鉄道復活はなりませんでした。
  • 西唐津界隈 鉄道全盛時代に思いを馳せる - 転轍器

    「スーパーマップル8九州道路地図」(平成14年刊)から 昭和58年4月、筑肥線は東唐津でスイッチバックしていた線形が改められ福岡市営地下鉄との相互直通運転に伴って姪浜~唐津間が電化された。同時に唐津線唐津~西唐津間も電化され西唐津は103系電車の車輛基地へと変貌をとげた。平成14年の道路地図では西唐津の臨港線と大島までの線路が記載されていた。 冷蔵車が並んでいたヤードは筑肥線電車の洗浄線が設けられていた。 H24(2012)/7/22 近代的な管理棟と電車検修庫は煉瓦の矩形庫があった辺りに建てられたものと思われる。 R5(2023)/3/1 電車留置・仕業線からさらに奥に進むと気動車検修庫と仕業線が見えてくる。 R5(2023)/3/1 道路地図の「大島通り」交差点付近。いかにも機関区の裏側の雰囲気が出ている。ドラム缶は制輪子の山。唐津興業鉄道が山~大島間を開業した時、西唐津は妙見の駅名

    西唐津界隈 鉄道全盛時代に思いを馳せる - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/09/18
    西唐津。ばりよか。行ったなあ。
  • 豊州路の汽車電車 - 転轍器

    蒸機時代、豊後森から日田へ向かう夕方の区間列車があった。趣味誌で見たその列車はD60+8620+客車2輛+貨車のまるでメルヘンの世界のような光景で印象に残っている。そのスジはディーゼル化されることなく50系客車でこの時も連綿と続いているようであった。 久大線豊後森 S59(1984)/9/27 昭和60年代になると宅地化の進んだ沿線とは裏腹に普通列車の編成は短くなってきた。キハ58+キハ28+キハ40の3輛編成が行く。 久大線南大分~大分 S60(1985)/4 蒸機時代にキハ17を先頭にした大分~佐伯間を往復する気動車列車が1往復走っていた。南宮崎電化後もそれは残り、電車やED76牽引の客車列車と共存していた。上り列車の交換待ちをする佐伯行2539Dは6輛編成で、前から5輛めは背が低いので1輛だけ健在のキハ1747〔分オイ〕と思われる。側線は編成から外されたビュッフェ車サハシ455が

    豊州路の汽車電車 - 転轍器
    maicou
    maicou 2023/08/17
    素晴らしいブログ
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