/大和政権は、奈良湖干拓拡大とともに疫病が蔓延し、全滅の危機に瀕した。これを須恵村の渡来人治水土木技術者が解決。これに気を良くした崇神天皇は、住吉港から羽曳野にまで至る幅10メートル、全長30キロの大運河を計画する。/ 疫病による大和全滅の危機 大和入りした神武天皇の年代はいまだに不明だが、ざっと3世紀半ば過ぎくらいか。とはいえ、神武の後、第2代から第9代まで、都は橿原(かしはら)のまま。事跡も不明。それで、「欠史八代」として天皇の実在性までも疑われる。 なんにしても、大和政権は巨大化していく。神武に先立つ大国主(農地土木集団)の東岸三輪山周辺への入植以来、周辺の山々の木々が燃料として伐採され、崩れる土砂の堆積で干拓が進み、奈良湖はあっという間に消滅し、中央に水足池(現奈良県流域下水道センターのあたり)の沼を残すのみ。しかし、干拓も善し悪し。広大な農地に大量の村民を得たものの、疫病が大流行