走れメロスもつまらなかったな。 文学に親しむって学習テーマだったそうな。 太宰の中でもなんでメロスなのか。 どうせ誰でも高校大学あたりで太宰にかぶれるんだし、なにも中学生で取り上げなくても。 メロスって、ホモっぽいエンディングしか思い出せない。 メロス「わたしを殴れ!結婚式の二次会で女の子に囲まれて調子にのって、酒飲んで寝た!」 セリヌンティウス「わたしを殴れ!君を疑った!」 王様「わたしも混ぜてくれないか?」 一同「アッー!」 って話だよね?
走れメロスもつまらなかったな。 文学に親しむって学習テーマだったそうな。 太宰の中でもなんでメロスなのか。 どうせ誰でも高校大学あたりで太宰にかぶれるんだし、なにも中学生で取り上げなくても。 メロスって、ホモっぽいエンディングしか思い出せない。 メロス「わたしを殴れ!結婚式の二次会で女の子に囲まれて調子にのって、酒飲んで寝た!」 セリヌンティウス「わたしを殴れ!君を疑った!」 王様「わたしも混ぜてくれないか?」 一同「アッー!」 って話だよね?
道徳の授業で何をやったのか、他の教科以上に覚えていないし 授業を受けている当時もこの時間が何なのか、よく分からなかったが 猛烈に「この話嫌いだ!」と思ったストーリーがあったのを思い出した。 覚えているキーワードで検索したらすぐ見つかり、「発車オーライ!」というタイトルということが分かった。 スピードを上げた特急バスが、小さな村にある見落としそうなバス停のいくつかを通りすぎたころ、突然前方の座席でなにやらトラブルが起こった。 「なんとか、とうげの手前のホロ町でおろしてもらえんかのう。」 と、車掌さんに声をかけているのは、年配のご老人だった。 こまった表情の車掌さんは言った。 「お客さま、特急バスは決められた所しかお止めできないことになっているんです。 それ以外の所でお止めして、もしもおりられたお客さまに万が一のことがありますとたいへんなことになりますので、規則でお止めすることができないことに
字がものすごく汚い。いわゆるミミズの這ったような字を地でいく感じで実に字が汚く、いみじくも「じ」の多い一文になったことを心より恥じる。財前五郎。 字が汚いと自分の書いた字を見るのが嫌になるので書くこと自体が嫌いになる。なので僕は手書きで字を書くのが本当に嫌いだ。タイプライターに端を発する今もこうしてカタカタ叩いているような入力装置がこの世に存在しなかったら、僕が人生の中で書いた言葉の量は大袈裟な話じゃなく今の1万分の1くらいだったんじゃないかなと思う。 字を書くのが嫌いだったのは昔からのことだったようで、思い返せば漢字の書き取りドリルみたいなのが小学生の時にあったと思うんだけど、あれがもう苦痛で苦痛で仕方なかった。手は疲れるし時間は無くなるしでどうにも憎たらしかった。 そこで当時の僕は最も効率的にラクをするためにどうしてやろうかと考えた結果、漢字を分解することで単純作業の単純度を更に引き上
わたしはとにかく句点が嫌いだ あれを文中に用いることは、文章を作り上げることに対する怠惰だと思っている 一つのことを表現したければ潔く一つの文章を作り上げるべきであり、それを疎かにするようにすました顔で現れる句点をみていると本文の内容にかかわらずそれだけで筆者の底が知れてしまうような気になってしまう 長い文章を、それでいて読みづらくなくすとんと頭に入ってくるようにリズムよくつむぎ出せることが文章力なのではないか 当然表現方法の一つとして否定するわけではなく、ここぞという時に今までの流れの一切を断ち切るようにあらわれる句点の使い方には頭が下がる わたしが言いたいことは、終わりもしない、変化もしない文章のつながりにあらわれる句点がどうしても許せないということだ 大げさな話をすれば、句点を打つということはその文章の流れに死を与えるものと同意なのだ その覚悟なく、水気とコシのないそばのようにぶつぶ
前回、「うまい文章」について考えてみたのですが、「文章の書きかた」って、考えれば考えるほど、よくわからなくなってくるのです。 僕は「文章術の本」を書店で見かけると、つい購入してしまう、「自分では拙い文章しか書けないけれど、文章術の本を読んで『その気』になるのが好きなワナビーブログ野郎」なんですよね。 そこで、どこかで誰かがこの僕の屍を越えてくれることを願って、「文章」を書くことに興味がある人へオススメしたい7冊を御紹介します。 おとなの小論文教室。 (河出文庫) 作者: 山田ズーニー出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2009/02/04メディア: 文庫購入: 5人 クリック: 25回この商品を含むブログ (19件) を見る以下は、この本のなかで著者が紹介されていた、画家の横尾忠則さんのデザイナー時代の「おはぎ」というエピソードです。 日本デザインセンターでのぼくの暴力沙汰はもう一つ
1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2014/07/14(月) 19:36:45.25 ID:K+Rfy5c50.net
どうやら、そうでも無いらしい。 これは私にとって驚きの発見だった。 もし「白紙に近い答案=バカ」が成立しないのであれば、 そもそも記述式テストというものは成り立たないのではないか。 より正確に言うと、 ・充実した答案 => 知識を持ち合わせている は正しい。しかし、この逆である、 ・スカスカの答案 => 知識を持ち合わせていない は、必ずしも真ではない。 なので、記述式テストというものは半分までしか成立しない。 これを当然だと思う人と、発見だと思う人がいる。 私は後者であった。なぜかと言うと、 「知識を持っていれば、それを紙の上に落とせるのは当然」 と思っていたからである。 縁あって、私はテストを作って、採点する立場にある。 掛け持ちの非常勤ではあるが、とにかく先生と呼ばれるものの端くれである。 その記述式のテストやレポートで、時折、ほんの少ししか書かれていない答案を見かける。 わずか2〜
えーっと、これまで何百回も書かれていることで、今さら自分が何か付け加えることもないのですが。 (じゃあ書くなと言われそうですが、当たり前のことを繰り返し書くために書きます) 「子ども」は「交ぜ書き」じゃありません。 「子ども」は「交ぜ書き」じゃありません。 (ry 「交ぜ書き」というのは、普通「漢語」についていいます。 「漢語」、つまり音読みの漢字からなる言葉です。 「いや、音読みとか訓読みとかはどうでもいい、交ぜて書くから交ぜ書きだ、だから『子ども』も交ぜ書きで、交ぜ書きには一切反対だ」とおっしゃる人もいるかもしれません。 そういう人はどうぞご自由に。 ただ、その基準で言うと「お昼」「お湯」なども交ぜ書きなので、同じぐらいの情熱で「御昼」「御湯」を推進してくださいね。 そもそも、「子ども」表記は戦前からあります。 (Google ブックス「ドン・キホーテ」より) この本は大正四年の大人向
小学校の国語の教科書では定番の童話「ごんぎつね」。この物語に対する1人の小学生の感想が、2ちゃんねるのスレッド「姪っ子のごんぎつねの感想が問題になっているんだが……」で議論を呼んでいます。 覚えていない方のために簡単にあらすじをご紹介。いたずら好きなきつねのごんは、ある日兵十が病気の母親のために用意したウナギをわざと逃がしてしまいます。ところが、その後母を失って落ち込む兵十を見てごんは反省、償いのために魚や栗を兵十の家に届けはじめます。しかし、そうとは知らない兵十はごんがまたいたずらをしにきたのだと勘違いし、ごんを火縄銃で撃ってしまう。そこではじめてごんが食べ物を運んでくれていたことに気付くというお話です。 多くの子供は「ごんがかわいそう」という感想を持ったようですが、投稿者の姪は「やったことの報いは必ず受けるもの」「こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、(兵十はごんの反省を知
文章術の話は後述。 現在の自分は、新入社員として1年間やってきたことの報告レポートを連休明けに提出せよ、と人事部から言われていて、まあ本来は先月末が提出期限だったので、いいかげん書かねばならない。のだけど、書く気、起きなッシングですね。 もう仕事を辞めたい旨はGW中に両親に告げて了承済み、まあ夏のボーナスまでは働いとけ、という話をまあそうだねと受け入れて、まあ夏までは頑張るか、という気になっていたのに、研修レポートの作成がやる気にならない程度で即退職を考えてしまう思考回路、ポンコツのそれだと思う。意味がないと思ったことは本当に手がつかない。昔からそれはそうで、いちいちやることに対して自分なりの理由付け、説明体系を作らないと、めんどくさかったり怖かったりで一歩も踏み出せない、それが俺のクソみたいなまじめさ・ダサさの根本だよなあ、とわかってるところで別にどうしようもない。 *** 話は飛ぶけど
思い切って、リベラルアーツでいうところの、文法学・修辞学・論理学をやったらどうだろうか。 文法学まず、文法学。 現在の国語の授業における文法論は特殊だ。 一応、中学で現代文の文法を、高校で古典の文法をならったけど、あれ意味がないように思う。 辞書と文法書さえ手にすれば、ドイツ語だってフランス語だって、素人でもなんとか作文はできるけど、その逆にアメリカ人に中学日本語の文法書と日本語の辞書を与えて作文が出来るとは思えない。 江戸時代の学者が、平安時代の文章を解釈するために成立させた学問がベースになっているためだろうけど。 思いっきり刷新したほうがいいと思う。 言語学的な内容も盛り込みつつ、日本語学校で教えるような実際に即した日本語教育というのが着地点かと。 修辞学ディベートとプレゼンを国語の枠で教えたほうがいい。 というか、なんで義務教育で今までなかったのか。 論理学国語教育に「論理的に考える
高知での一場面。田舎の駅の跨線橋の階段を、女子中学生同士が手を繋いで降りてくる。また腕を組んで駆け登っていく。大学近くの線路を渡ったところにある神社では、学生たちかデートをする光景もあり、のどかだ。地域文字はないか、と探すのは卑しい感じがしないでもない、自然に眼に入ってくるのを待つのだ。 「葛島」だ。歩き回っているうちに自然に着いた。空港からのバスの中からも見ていた所まで来てしまった。この「葛」は、ときどき字体に問題ありとして扱われる字で、教え子もこの字を丹念に観察して修士論文を仕上げた。皆さんのパソコン画面では、この字は、どういう字体で見えているだろうか。高知のその地名では、 かづら かずら と、仮名遣いも揺れているが、字体が気に掛かる。 「島」と、明朝かゴシック体で看板にあった。ほかに、 「島」と明朝体。 「島」と筆字とゴシック体。この手書き用とデザイン用の両方の書体が、互いに似てくる
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