このツイートは正しいが、今政治家は社会全体の効率を犠牲にしてでも「どんな才能を持っていても低賃金の家の子は低賃金の職にしか就けずどんな無能でも政治家の子供は政治家になれる」カースト制社会を作ろうとしているので、公教育削減は非効率と… https://t.co/74s8g4a4E8
なぜ「自分のできること」の範囲に限定するのか 娘(中1)が「環境新聞」というのを学校の宿題で作っていて、横から眺めていた。 温暖化について書いている。 「結論は自分ができることを書かないといけないんだ」と言って、ムダな電気を消すとかそういうことを書いていた。 その後授業参観で、クラスの壁に貼られた、クラスの生徒たちがそれぞれつくった「新聞」を見る機会があったが、温暖化だけでなく、ごみの減量とか、プラスチックごみの縮減とか、さまざまな環境問題についてまさに「自分ができること」で締めくくられていた。例外なく全て。徹底した指示・指導なのであろう。 なぜ「自分のできること」の範囲に限定するのだろうか。どうして「2030年に8%という低すぎる福岡市の再生可能エネルギー普及率の戦略を引き上げる」とか「プラスチック全般に拡大生産者責任を徹底する」とか、そういう「大きな話」を書いてはいけないのだろうか。*
ベルマーク論争から半世紀近く経つが、PTAの「寄付」はいまだに続いている(写真:ミラタス/アフロイメージマート) 「学校って、本当にお金がないんですよ……」という言葉を、どれほど聞いてきたでしょうか。先生が忙しすぎるのも、PTAのお金で学校に必要な備品を買うのも、PTAが学校のお手伝いをすることも、この「学校にはお金がない」のひと言で、「仕方がないこと」とあきらめられてきました。 正直なところ、筆者もPTAの取材を始めたばかりの7、8年前は、このマジックワードを受け入れていました。インタビューをした校長先生に、「学校って本当にお金がないんですよ……」と温和な困り顔を見せられれば、「それは大変だ、子どもたちのために、PTAがある程度お金や労働力をカバーするのはやむを得ない」と思っていたのです。 しかしこの「学校ってお金がないんですよ」を、我々は一体、いつまで言い続けるのでしょうか。戦後20、
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