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ブックマーク / www.tapthepop.net (9)

  • 震災に見舞われた新潟に手を差し伸べたデューク・エリントン

    「A列車で行こう」をはじめとして数多くの名曲を残し、ジャズ創成期の20世紀前半を語る上で欠かすことのできない存在、デューク・エリントン。 「一人の人間のサウンドはそのミュージシャンの全人格」というのは彼の言葉だが、デュークは常に音楽を通じて自身の楽団のメンバーと向き合ってきた。 そうして生まれた音楽が持つ魅力について、大友良英はこう説明している。 僕らが今聴いている音楽の大部分は「打ち込み」と呼ばれている音楽で、コンピューターでオーケストラみたいな音も、デューク・エリントンみたいな音も作ることができます。ファミレスに行くと、どの店舗に行っても同じハンバーグが出てくる感じ。 デューク・エリントンの音楽は、最高級のレストランで、顔がはっきりとわかるシェフが作ったアメリカ料理なんです。 デュークが待望の初来日を果たしたのは1964年の6月19日。折しもそれは新潟震災の発生から3日後のことだった

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  • 何も言わずに待ってくれた大瀧詠一に「君は天然色」を書いて応えた松本隆

    隆は1985年の11月から12月にかけて、朝日新聞の夕刊で週1回『新友旧交』というコラムを8週にわたって書いていた。 そのときに「待ってくれた大滝」と題して、アルバム『A LONG VACATION(ア・ロング・バケイション)』が誕生した時の経緯を明かしている。 大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。 そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。 「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詩は松に頼もうと思ってね」 「よろこんで協力させてもらうよ」 後にミリオン・セラーになった『ア・ロング・バケイション』は、こんな会話から生まれた。 (「待ってくれた大滝」朝日新聞1985年1

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  • 時代を超えて現在を撃つメッセージと演奏~スーパー・ジャンキー・モンキー

    1993年11月、CBSソニーで国内新人発掘部門を担当していたミュージック・マンの野中規雄は、ニューヨークのライブハウス「CBGB」に来ていた。 ラモーンズやテレヴィジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズなど、パンクに影響を受けたバンドが出演していたことで知られるCBGBに野中が足を運んだのは、日で行われたオーディション優勝者に与えられた副賞だった「CBGBで演奏できる権」の立ち合いのためだ。 アメリカのインディーズ・バンドによる街フェスとして始まった「CMJミュージックマラソン」に、日から参加していたのはオルタナティブ・ロックの4人組、SUPER JUNKY MONKEYである。 地元インディーズ・バンドに混じっての出演だったこともあって、 前のバンドが終わると観客たちは引き上げ始めた。 スーパー・ジャンキー・モンキーのメンバーたちがセッティングを始めるのを見て、まるで期待できな

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    yuzuk45
    yuzuk45 2015/12/14
    SJM
  • 寺山修司が世に出した”ふたりのマキ”②カルメン・マキ「時には母のない子のように」

    2015年10月24日、カルメン・マキがNHK-BSプレミアム「ザ・フォーク・ソング~青春のうた」に出演して、「戦争は知らない」と「時には母のない子のように」の2曲をうたった。 曲と曲の間には亡き寺山修司のことを、こんなふうに語っていた。 1968年頃に赤坂にスペースカプセルというゴーゴークラブがありまして、そこのイベントを寺山修司さんがプロデュースしたのですが、その中で私のコーナーみたいなのがあって、私はそこで歌と詩の朗読をやっていました。 その内容をほぼそのままアルバム化したのが、私のデビュー・アルバムの『真夜中詩集 カルメン・マキ~ろうそくの消えるまで』です。 それはカルメン・マキのアルバムというよりも、私は寺山修司作品じゃないかなと今は思ってます。 まあそれだけ寺山修司さんという人が私を理解し、また17歳の少女の感性、私の生い立ちもふくめて、とても私をよく理解してくれていたからこそ

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    yuzuk45 2015/10/26
  • 日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバー「ダイナマイトが百五十屯」の破壊力

    で最初にヒットしたロックンロール・ナンバーと言われているのが、1958年11月に発売されたシングル盤の「ダイナマイトが百五十屯」である。 歌ったのは当時23歳の映画俳優だった小林旭、作詞は脚家でもある関沢新一、作曲したのが後に演歌の大御所となる船村徹だった。 1958年9月にコロムビアからデビュー・レコード「女を忘れろ」(作曲・船村徹)を出した小林旭は、シングル第2弾となったこの曲のヒットをきっかけにして、”爆弾男”すなわち”ダイナマイト・ガイ”のニックネームが付けられていく。 それを短く縮めて”マイトガイ”と呼んで、日活が一気に売り出したのは翌1959年からのことである。 主演した映画『二連銃の鉄』のなかで「ダイナマイトが百五十屯」が挿入歌に使われたのは4月、続いて7月にも”マイトガイ”が活躍する映画『爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ』が作られた。 ”マイトガイ”が定着した小林旭の

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    yuzuk45 2015/08/28
  • I’ve Got Life!私は生きている!〜伝説の歌手ニーナ・シモン

    私には家がない もない 金もなければ 品もない 土地もなければ 信じるものもない 頼る教会もないし 祈る神もいない じゃあ、私には何があるの? 私には何があるのか教えて 私はなんで生きてるの? 時代を超えて人々を惹きつけて止まないニーナ・シモン。 黒人女性としての誇りと尊厳を歌いあげた伝説のシンガーソングライターとして音楽史にその名を刻んだアーティストである。 “ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー”では第29位に選ばれている。 1933年にアメリカ南部の貧しい黒人家庭のもとに生まれた彼女。 60年代には公民権運動に積極的に参加し、様々なメッセージを込めたシニカルで大胆な楽曲を数多く残した。 2003年4月21日に乳ガンで息を引き取るまで力強く生き抜いた人である。享年70だった。 他界から12年後…2015年、そんな彼女の歌手という側面だけではない、真の姿に迫った

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    yuzuk45 2015/08/04
  • ピストルズが宣伝のために行なった、あまりにも挑発的なパフォーマンス

    1970年代半ば、イギリスでは失業率がどんどん増加していき、他のヨーロッパ諸国からは“ヨーロッパの病人”と呼ばれていた。 そして、伸び悩む経済力とオイルショックの影響からついに財政破綻をしてしまう。 そんな時代に登場したのがセックス・ピストルズだった。 メンバーを集めたのはブティック経営者にしてニューヨーク・ドールズのマネージャーも務め、のちにイギリスにおける“パンクの父”と呼ばれることになるマルコム・マクラーレンだ。 1975年、出張先のアメリカでニューヨーク・パンクに魅了されたマルコムは、ロンドンに戻ると自身の手で新たなバンドを売り出そうと考えた。 そこで目をつけたのが、ロンドンに構える自身のブティック「SEX」の常連が組んでいたバンド、ストランドだ。 マルコムは、ストランドのスティーヴ・ジョーンズとポール・クックに、「SEX」の店員として働いていたグレン・マトロック、そして「SEX」

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    yuzuk45 2015/07/29
  • ジョン・コルトレーンの最高傑作〜モダンジャズの巨人が到達した“至上の愛”とは?

    Home TAP the NEWS ジョン・コルトレーンの最高傑作〜モダンジャズの巨人が到達した“至上の愛”とは? - TAP the POP モダンジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーン。 1950年代の終わりころから一気に花を咲かせて疾風のごとく通り過ぎていってしまった男である。 ジャズファンの中では“晩成型の巨人”とも言われた彼。 もう一人の巨人、マイルス・デイヴィスとは良く知られている通り同年齢だった。 1955年から61年まで、この二人の巨人は同じバンド(第一期マイルス・デイヴィス・クインテット)でプレイをしていた時期もあった。 こうして、マイルス・デイヴィスとは50年代後半の“モード時代”を共にするが、1967年に他界するまでの彼は、まるで自身の夭折を予期していたかのような煌めきに満ちたソロ名義の作品を残している。 名ジョン・ウィリアム・コルトレーン。 1926年9月2

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    yuzuk45 2015/07/28
  • 大瀧詠一が“命がけ”で挑んだ一度限りのはっぴいえんど再結成

    1985年の6月15日、旧国立競技場で開催された『国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW』。 日もすっかり暮れた頃、西日の差し込むステージに登場したのは大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松隆の4人によって、12年ぶりの再結成を果たしたバンド、はっぴいえんどだった。 オールナイトニッポンのドラマ『俺たちがはっぴいえんどだ』では、再結成に至る経緯が語られているが、簡潔にまとめれば次のようになる。 「All Together Now」のチーフ・プロデューサーを務めていたニッポン放送の亀渕昭信は、出演してくれるミュージシャンを集めようと奔走していた。 そしてイベントを成功させるために、是非とも大瀧詠一に出演してほしいと考えて、福生にある大瀧の自宅を訪ねた。 ところが「当分ライブはやりたくないんだ」と、あっさり断られてしまった。 その日の夜、大瀧が自宅スタジオを掃除していて見つけたのは、はっぴ

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    yuzuk45 2015/07/27
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