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増田と災害増田に関するzeromoon0のブックマーク (28)

  • 311に寄せて

    忘れちゃならん災害だけど、今日あえて書きたい。 311の地震があった当時、まだ子どもだった私は兄と父方の祖父母を亡くした。友達も亡くなった。 親戚や母方の祖父母の協力もあって大学まで進学でき、就職もしたが、あの地震と津波は子どもの私のアイデンティティに影響を与えた。 大学は関東に行ったが出身地について話すと(ああ、津波の…)みたいな反応があったし、これからもそういう印象を持たれ続けるんだろうなと思っていたし、311のことを忘れてほしくないからそれで良いと思っていた。 今でも思い出さない日はないし、地震や津波に対する意識が低いというか、当事者意識のない人に苛つくこともあった。自分だって被災するまで当事者意識の欠片もなかったのに良いご身分だとは思っている。 関東で就職した。 就職して半年くらいの頃に出張で関西の支社に行った。上司に連れられて関西支社の人たちと話して、軽い自己紹介の折、出身地とか

    311に寄せて
    zeromoon0
    zeromoon0 2023/03/12
    人にはその人だけの地獄があるので他人の無関心を責めることなどできないと最近思ってる。ただし帰宅困難の報道、てーめはダメだ。
  • 今日、30歳になった

    私は、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市で生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんをべ、旧居留地の優雅な建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲店が立ち並ぶ下町の長田、六甲山の麓に日屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域も個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。 私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパスは自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校で勉強するのかな、なんて思っていたものだ。 私が小学校にあがる前のある日、父とふたりで大学の中を歩いて

    今日、30歳になった
  • 洪水被害にあったらやること

    住人(特に持ち家をもっている人)にとって、洪水は水がひいてからが真の戦いになる。 うちは避難所ではなく自宅2階に避難した。周囲が3mの水深、床上1.5mの浸水。今回は自宅避難メインで災害後にやったことを記録しておく。 被災後は呆然としてしまう。頭がまっしろになって、なにから手を付けたらいいかわからなくなる。だから結構細かく書いた。全部つめこんだから長いけど、読み飛ばしてもらって構わない。もしもの事態に遭ってしまったときに、この記事を思い出してもらえたらとても嬉しい。 前の記事:避難は早いうちにしたほうがいいことを書いたやつ→https://anond.hatelabo.jp/20210814184153 とにかくまず被災写真を撮る被害にあった場合、まずはとにかく写真を撮る。撮りまくる。可能なら水深が一番あるときの室内の写真も撮っておきたい。また、床下浸水であったとしても写真をとっておくこと

    洪水被害にあったらやること
  • 洪水にあいそうなときはすぐ避難したほうがいい

    令和2年7月豪雨で床上浸水した。想定外のことが起こりまくったので、いままさに大雨にあっている、あいそうな人に向けて避難を推奨する文を書いておく。 8/15追記:被災にあってしまった後、何が起こるか、どうしたらいいかを書いた→https://anond.hatelabo.jp/20210815211223 起こったこと7月3日夜 大雨特別警報がでる 7月4日午前3時か4時頃 スマホの非常アラームにたたき起こされる 7月4日午前7時 隣町で床下浸水(しばしばよくある) 7月4日午前7時30分 家の周囲が5㎝くらいの水深になる(いつもの大雨と違うことを察知) 7月4日午前9時30分 家の周囲が3mくらいの水深になる、床上1.5mの浸水 ~このあたりからネット回線と電話回線がしぬ。停電になる。ガスが止まる。 7月4日午前10時 水深2.5mくらいになる、そのあと徐々に水が引き始める 7月4日午後1

    洪水にあいそうなときはすぐ避難したほうがいい
  • 東日本大震災で何も貰えなかった

    当時被災して避難所の体育館に行ったら 後から来た人には料は配布してませんとか言われたよ 会社から歩いて帰ってきて家族と次の日に体育館に行ったらそんなこと言われて絶望したよ 震災で絆、絆とか馬鹿みたいに言ってたけど 救済措置なんか何もなくて料がどこかにないかひたすら歩き回ったよ そしたらさ 肉屋でハム売ってたんだけど それがコンビニでよく売ってる量くらいで1000円 そんなぼったくり価格だった 背に腹は変えられないから買ったけど そういう事やる店も沢山あったよ 世の中冷たいことばかりだったのに なぜか震災関連って美談ばっかりでむかつくよ 嫌な思いなんか沢山したんだから 軽々しく絆とか言わないで欲しい ちなみに祖父母が津波で亡くなった そういう状況下で大変だった だけど国は補助金なんかくれるわけでもなかった 震災して傷ついたことがあっても 金なんかろくにくれないよ 義援金のニュースとか結構

    東日本大震災で何も貰えなかった
    zeromoon0
    zeromoon0 2021/03/14
    いろいろ言いたいことはあるけど、この増田は不誠実な情報だということをいちばん伝えたい。
  • 震災の日

    関東の人にとっては忘れられない日なんだろうけど、大阪のおれからすると「そういえばそうでしたね」くらいの感想だったりする。 でも1/17になっても全国区のニュースでは今日ほどの熱量では阪神淡路大震災は報道されていないと感じる。 地元以外を悼むのも難しいのかなと思う。

    震災の日
  • 東京の人間が東日本大震災のことを言うたびに白ける

    テレビで見た津波映像? 帰宅難民? 計画停電? ふーん、あっそ この嫌悪感が伝わるかなあ 伝わんねえだろうなあ 被災者じゃなくて自分たちが世界の中心なんだろうなあ 一生そうやって自己中心主義で生きていくんだろうな

    東京の人間が東日本大震災のことを言うたびに白ける
  • 東日本大震災に向けて、ある熊本地震被災者の吐き出し

    今日は東日大震災からちょうど10年になる日なわけだが、毎年どうしても思ってしまう事があるので、ちょっと吐き出させてほしい。 吐き出したいだけで、別にどうしてほしいというわけではないのだけども。 俺自身は東日大震災の被災者ではないけど、5年後の熊地震の被災者だ。 東日大震災の当時から募金したり支援物資を送る活動に協力したり、大したものではないが支援活動をやった。 熊地震を被災し、規模は違えど、地震被災の辛さは多少わかるようにもなった。 けど、熊地震から1~2ヶ月ほど経過して以来、どうしてもこんな声を見かけるようになった。 【熊地震】モンスター被災者のワガママが酷すぎると話題に https://mona-news.com/archives/59242050.html 挙げたのは一例に過ぎなくて、もう5年も前の話なのでどこで見たかは覚えていないが、当時とにかく被災者がひたすらバッシ

    東日本大震災に向けて、ある熊本地震被災者の吐き出し
    zeromoon0
    zeromoon0 2021/03/11
    気休めにもならないと思うけど、東北の避難所だって変な奴はいた。そういう心無い言葉を言う人はどこにでもいるのでこちら側でシャットダウンするしかない。かなしい。
  • 東日本大震災10年ということで当時はこうだった特集があちこちで出てきて少..

    東日大震災10年ということで当時はこうだった特集があちこちで出てきて少し辛い。 思い出したことをとりあえず書いてみる。 時系列じゃないです。 震の後外に避難すると、それまで穏やかだった空がいきなり暗くなって雪が降ってきた。 誰かが「この世の終わりか」と叫んだ。 幸い酷い津波は見なかったけど、原発事故の範囲だった。 もう少し避難範囲が広がっていたら確実に避難しなくてはいけない距離にいた。 原発が水素爆発したとき、多くの人は片付けや給水車に並んでいた。 爆発の速報を聞いてまずは「当に死ぬのかな」と思った。 その後「でも多分死ぬならみんな一緒だから寂しくないな」と思った。 1週間家から出ることが出来なかった。 外に出る時は雨合羽を羽織って行った。 ガソリンは枯渇していた。 古い家の瓦がボロボロ落ちていた。 物資はなくなって、謎の配給が始まった。 犬が不安になってずっと鳴いていた。 家の近く

    東日本大震災10年ということで当時はこうだった特集があちこちで出てきて少..
  • 震災から10年だからなんだよって思う

  • 3.11からそろそろ10年経って思うこと

    私は宮城県の某被災地に生まれ育った。 親の親世代からこの土地に根付いているような家系で 昭和の悪い部分を煮詰めたような部分が自分は大嫌いだった。 なんでおじいちゃんは自分のお茶を入れないのか? なんで共働きの母ばかりが家事をしているのか? 幼い頃に感じた純粋な疑問に対して誰も納得のゆく答えをくれないまま それなら都会へ、という憧れを抱いて高校卒業後に飛び出した。 思春期にカルチャー沼にどっぷりハマってからはひたすら 早くこの街を出たい、好きなモノに埋もれたい、親元から離れたいという思いしかなかった。 そこに執着する理由には家族間の軋轢もしかり 都会でしか享受できない文化的資の差に打ちひしがれた田舎での経験だった。 そんな中、都会で青春真っ盛りの最中にあの地震と津波が起きた。 私はその時、憧れていた東京にいて そこそこ楽しい大学生活をしながら 自分の目標のためバイトに精を出していた。 あの

    3.11からそろそろ10年経って思うこと
  • 震災を経験できなかった東北人

    東北人と言っても大学生活を仙台で過ごしただけなんだけど。 大学を卒業した約1年後にあの震災が起きて。 友人のほとんどは大学院に進学していたし、当時付き合っていた彼女もまだ仙台にいたので、地震が起きてからみんなの安否がわかるまでは気が気ではなかった。 関東の人が「大変だった」みたいな話をするのを聞くたびに、その程度のことが大変だったとか言ってるんじゃねぇよみたいな気持ちになる。 しかし自分も東北での震災を経験できなかった。 震度7の揺れとか、携帯電話が繋がらなくて公衆電話に並んだとか、停電のなか星がすごく綺麗だったとか、そういった経験を聞くことはできても、どこまでも想像でしかない。 あの時仙台に居たかったという思いが少しだけあるまま、そんなことを誰かに言えるわけでもないので、そのまま10年が経った。 「復興支援」といったものに積極的に参加しているわけではないけれど、このモヤモヤがいつまでもあ

    震災を経験できなかった東北人
  • 東日本大震災からもう少しで10年

    あの時、私は東北にいた 揺れも震度5強と被災地に比べればマシだった 数日の停電断水、その程度で済んだのだから 当時のことは、今でも鮮明に覚えている 全く電気が点かず、携帯も電池切れ ラジオ以外の情報がないまま1日以上過した 電気が通じ、津波のニュースをやっと映像で見ることが出来てあまりの恐ろしさに絶句していた 近頃、色んなテレビで震災特集が組まれている その度に、当時の事を思い出してしまう 今でもあの震災は、自分の胸に焼き付いているのだろう

    東日本大震災からもう少しで10年
  • 震災10年への不安

    東日大震災から丸10年が経とうとしているが、個人的にはテレビで震災特集みたいなのをするのを見るたびに不安が大きくなっていくのを感じる それは、3月11日が絶対に忘れてはいけない日なのは確かだとしても、今後あの規模の災害が起きない保証などどこにもないからだ。 保証がないどころではない。もはや確証のように南海トラフ地震の予想も何年も前から出ている。 3月11日周辺だけ思い出したかのように"あの日は…"みたいなことをするよりも少しでもその日に備えてたほうがいいと思う でもどうすればいいのかわからぬままだ。 正直、地震が怖い。

    震災10年への不安
  • 初恋の相手を失った震災-さよならという言葉

    はてな匿名ダイアリーというものの存在自体は割と昔から知っていたが、 時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。 ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。 文章を書くことは苦手で、ここ特有のルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、 色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。 30年前、私は子供だった。 近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。 母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。 シングルマザーだったのかな。幼かったのでそこの記憶がない。 A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。 歳が近い

    初恋の相手を失った震災-さよならという言葉
  • 傷 神戸で生まれて高校まで神戸で暮らした。 大学で初めて出来た彼も神戸の..

    神戸で生まれて高校まで神戸で暮らした。 大学で初めて出来た彼も神戸の人で、二人とも神戸の街が好きだった。 正月は一緒に帰省してお互いの家に挨拶にいったり、お互いのお気に入りの場所を回ったりしていた。 東京に戻った10日後に地震。 全く電話が繋がらなくて不安だったけど、2日経ってようやく向こうからかかってきて家族も家も無事なことを確認した。彼の家も無事だった。 テレビからは大好きだった街や建物が破壊されてる映像が流れてくる。 怖かった。 家族以外の友達に連絡するのもなんか怖くなった。 亡くなってたら悲しいし、もし無事でも家が壊れてたら、なんて言えばいいのかとか、よくわからない事を考えてた。 高校時代毎日遊んでた友達もいたのに、安否を確認するのがとにかく怖かった。 彼とはその年のうちに別れた。 少し冷静になると、今度は罪悪感が生まれてくる。 なんで友達に連絡しなかったのかとか、帰れるタイミング

    傷 神戸で生まれて高校まで神戸で暮らした。 大学で初めて出来た彼も神戸の..
    zeromoon0
    zeromoon0 2021/01/17
    サバイバーだ。怖くなるのわかる。
  • 震災で津波で家族が流されたんだけど

    今のコロナでみんなの心がぎすぎすしていたり、誰かが誰かを叩いていたり、悲鳴を上げているのを見ても、なんだけ遠い世界の話のように見える 正直、コロナは怖いのは分かるけれど、目の前で親が流されていったり、住んでいたところの空気がいきなり放射能に汚染されて逃げるしかないとか、そんなのに比べれば遙かにマシじゃないかと思う 特に東京の人は一番感染者が多いから、恐ろしいのもわかるけれど、まだいいよ。真綿でじわじわと首を絞められるようだ、というけれど、突然上から爆弾が降ってきて何もかもなくなってしまって、後悔後悔で毎日を生きているより、よほどいいよ 俺は未だにあの時の光景を夢に見る 走って逃げて、高台にたどり着く目の前で、知り合いのおじいちゃんが流されて、母親の手を握ったけど、離れてしまって アレは地獄だ、アレこそ地獄だった コロナがいつか落ち着いた日に、経済活動は止まっているかもしれないし、仕事はなく

    震災で津波で家族が流されたんだけど
    zeromoon0
    zeromoon0 2020/04/26
    多分そう思ってる災害経験者は多いと思うし、自分もあの頃の地獄に比べりゃマシとは思ってる。
  • 阪神淡路大震災の思い出

    あの頃、私は大阪の大学の研究室で、毎日ひぃひぃ言いながら研究に明け暮れる日々だった……とか書くと、何自慢してるんだ、とか言われそうなのだけど、なかなか良い結果が出ずにひぃひぃ言っていただけの話で、色々辛い思い出ばかりの時期だったのだ。 そんなときに来たのがあの地震だった。私は深夜に戻って寝ていた下宿であの地震に遭遇したのだが、幸いそこは大した被害はなかった(室内はぐちゃぐちゃになったけれど)。しかし大学は、あちこちで建物の窓が割れていたり、ある建物の最上階ではボヤになったり、実験に使っていた装置のアラインメントが狂っていたり……と、色々と問題が出て、その後も何か月もの間尾を引いた。友達の一人は、家の壁が抜けてしまい半壊認定、そして転居することになったのだが、もともとが貧乏人(馬鹿にしているのではなく、私も同様の貧乏人だった)だったので、見舞金で一種の焼け太りとでもいうような状態だった……い

    阪神淡路大震災の思い出
    zeromoon0
    zeromoon0 2019/01/18
    地震の話は直接ではないけど、なんか来るものがある。
  • 地震

    むっちゃゆれてる。長周期振動

    地震
  • エレベーターに閉じこまれたみなさんに

    1, まずは落ち着きましょう。 2,非常ボタンをして外部と連絡出来るか確認しましょう。(スマホ、PC保有者はスカイプで連絡できるか確認) 3,閉じこまれた人数を確認しましょう。 4,閉じこまれた人たちが料をどのくらいあるか確認しましょう 5,トイレをしたくなったら引いてあるカーペットを剥がして目隠しにして閉じこまれた人たちが足踏みをして音を消すようにしましょう。

    エレベーターに閉じこまれたみなさんに