タグ

ブックマーク / artscape.jp (4)

  • 彫刻を見よ──公共空間の女性裸体像をめぐって:フォーカス|美術館・アート情報 artscape

    で育った大多数の人々にとって、「美術」「彫刻」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、古風な衣服をまとった西洋人の石膏像と並び、駅前や公園など、屋外の公共空間にある記念碑的な人物銅像(その多くが裸体を晒している)ではないだろうか。しかし(「美術」「彫刻」という言葉と同じく)国内でそうしたイメージが定着したのはそれほど古いことではない。その過程に何があったのだろうか? 最近のartscapeでも、 3月1日号村田真レビューでは「小沢剛 不完全─パラレルな美術史」展、また同じく4月1日号の星野太レビューで荒木慎也『石膏デッサンの100年──石膏像から学ぶ美術教育史』がピックアップされている。今号では、彫刻家で彫刻・銅像・記念碑研究者の小田原のどかが、公共空間での「女性」裸体像の起源に迫る。なお稿に関連し、昨年4月15日号高嶋慈レビューによる小田原の個展「STATUMANIA 彫像建立癖」評も参照

    彫刻を見よ──公共空間の女性裸体像をめぐって:フォーカス|美術館・アート情報 artscape
    Imamu
    Imamu 2018/08/09
    「「見なくてもいい彫刻」はひるがえってこう言っているのだと思い至るようになった。「彫刻を見よ」と」「日本において彫刻を学ぶこととは、裸の女をうまくつくる技術を習得することに等しいと言っても過言では」
  • 絵画的保守主義と結合の美学──「会田誠展:天才でごめんなさい」レビュー:フォーカス|美術館・アート情報 artscape

    おおよそ初期作品とは、その作家がのちに展開することになる方法論をあらかじめ開示するものである。会田誠の場合、実質的なデビュー作となった《巨大フジ隊員VSキングギドラ》(1993)がそれに相当するだろう。では、会田誠における「方法」とはなにか。 1991年に制作された《あぜ道》という作品がある。あぜ道と女子高生の頭部の髪の分け目が一につながり、画面を真ん中から分断する。あぜ道のモチーフになっているのは、東山魁夷の《道》(1950)であり、女子高生はのちに会田が執拗に描くことになる対象である。ここでデモンストレートされているのは、来出会うはずのない事象同士の、絵画的な結合の仕方だ。髪の分け目はあぜ道となり、近代日画と女子高生というかけ離れた対象を「結合」する。会田誠の絵画に一貫するのは、このような、けっして出会うはずのない複数の事象を、絵画的な空間表現を通じて接続するという主題系である。

    Imamu
    Imamu 2012/12/19
    「たとえばマグリットの絵画」「様式批判である会田誠の絵画は、そのためにひとつの絵画空間=保守的な具象的傾向を選択してしまう」「メタ・フレームとしての「私」からギルド的生産体制へ」
  • モダニズムと前衛の消長(国立新美術館「シュルレアリスム展」レビュー):フォーカス|美術館・アート情報 artscape

    1920年代のパリに始まり、約40年間続いた20世紀最大の芸術運動「シュルレアリスム」の全貌を、48人の作家による約170点の絵画、写真、彫刻などでたどる「シュルレアリスム展」……過去に何度も開催されたポピュラーな展覧会だが、今回は、従来とは異なる新たなシュルレアリスム像を提示できているのだろうか。 毎年のように展覧会が開催され、書店や図書館の美術書コーナーには画集や研究書が常備されているなど、日におけるシュルレアリスムの人気は高い。普段あまり美術に接する機会のない人たちであっても、サルヴァドール・ダリ、マックス・エルンスト、ルネ・マグリットといった代表作家の夢幻的な作品には見覚えがあるだろう。発祥から100年にも満たない歴史の短さを思えば、そのポピュラリティには素直に驚かざるを得ない。半面、人気が高く何度も展覧会が開催されているということは、その分イメージが強く固定されているということ

    Imamu
    Imamu 2011/02/17
    『バタイユが絵画に対して既成の権力を危機に陥れる「妥協のない唯物論」を求めていたのに対し、ブルトンの方は「明瞭さ、厳密さ、静かな瞑想にふけらせてくれる何ものか」を追求していたとでも』
  • 第6回(最終回):リアルタイム・ウェブは「歴史」を殺すのか?:〈歴史〉の未来|美術館・アート情報 artscape

    昨年始まった連載も、今回でいよいよ最終回となる。これまで連載では、ニコニコ動画やTwitterといったウェブサービスを例に挙げながら、「歴史」を支える情報基盤がはたして今後どのように変容していくのかについて、拙いながらも思考実験的な論考を重ねてきた。最終回となる今回は、これまでの連載のモチーフを振り返りながら、リアルタイム化が進む情報環境下での〈歴史〉のあり方について思考をめぐらしてみたい。 Twitterに見られる「時間的局所性」 これまで連載が一貫して注意をはらってきたのは、ニコニコ動画にしてもTwitterにしても、近年の情報環境においては「リアルタイム化」が急速に進んでいるということだった。ありていにいえば、そこでは誰もが「ストック」よりも「フロー」の情報に多くの認知的リソースを割り当てるようになり、「過去」よりも「現在」こそがますます重視されるようになる。 そのことを端的に

    Imamu
    Imamu 2010/08/23
    Library of Congress(米国議会図書館)によるTwitterの全ログ保存『パブリックなものをアーカイヴ化すると、逆にパブリックな領域からは退出してしまう」という逆説』「研究者のような第三者に過去を「研究」される機会」
  • 1