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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (31)

  • 2024/02/09 - 偽日記@はてなブログ

    ⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第三話。ドラマとして相変わらず面白いが、ちょっと甘い感じのところが気に掛かった。一話でも、パワハラ問題の収め方にかんして、え、そういう方向で収めちゃっていいの ?、と、疑問に感じだが、それは全体の面白さからすれば些細な甘さだと思った。だが、三話でも、セクハラのガイドラインが欲しいという問いに、「娘にしないことはしない」という「提案」が示されるのだけど、それをあたかも「解」であるかのようにされると、うーん、ちょっとそれは、と、モヤモヤする。そもそも、そう簡単には解決しないような問題の「解」を示すことが目的のドラマではないのだから(そうではなく、ある種の抗争状態を示すことが重要ではないか)、中途半端な甘い解決を入れる必要はないのではないかと思う。せっかく面白いのに、下手をするとその甘さが決定的な瑕疵となってしまう危険もあるように感じた。 (追記。ロバート秋山

    2024/02/09 - 偽日記@はてなブログ
    Imamu
    Imamu 2024/02/15
    『不適切にもほどがある ! 』第三話「「昭和のオヤジが現在に現れた」というシチュエーションは、決して「昔は良かった」ということではなく、「失敗可能性の塊」が現れた、ということなのではないか」
  • 2022/10/13 - 偽日記@はてなブログ

    Netflixで『リコリス・リコイル』を観た。アニメを観て面白いと思えたのはずいぶん久しぶりだ。最後までちゃんと面白く、一定の納得を得られた。突出した傑作という感じではないが、日のアニメにおいて歴史的に蓄積されてきたさまざまな達成があることによって成立している高度な作品という感じ。 日のアニメでは、「美少女」という形象(イメージ)に、あまりに大きな負荷を負わせているし、あまりに強く依存してしまっているという問題があり、それをスルーすることはできない(世界の汚濁や毒を自己犠牲的に浄化する役割を期待されてしまっている)。しかし同時に、それによって可能になっている多くのことがあることも否定できない。この作品は、そのことに対する批評になっていると言えば言い過ぎだが、一種のアイロニーのようなあり方をしている。 この作品においてリコリス(≒美少女たち)は、世界の汚濁や毒を浄化するのではなく、単に

    2022/10/13 - 偽日記@はてなブログ
    Imamu
    Imamu 2022/10/16
    リコリス・リコイル“犠牲性や悲劇性が強調されない代わりに、それらが美しいものとして歌い上げられることが決してない。そこにも、この作品の「知性」”“他者からの贈与=刻まれた傷を誤読…「生きられた批評」”
  • 2022/10/08 - 偽日記@はてなブログ

    ●お笑いをコンテスト形式にして盛り上げるというやり方が嫌なのでいつもは観ないのだが(そもそもテレビは全く観ないのだが)、岡野陽一が出るというので「キングオブコント」をTVerで観た。「最高の人間(岡野陽一+吉住)」のネタはとても良かった。「巨匠」時代のコントよりもさらに濃くなっているというか、吉住の「演技力(キャラ造形力)」と岡野陽一の「毒」という互いの強みが掛け合わされていて、まさに、普段に一人でやっている人たちのコラボとして意味のあるものになっていると思った。 コンテスト形式で必須だと思われる「終盤の畳みかけるような展開」をあえて外している、意図的に「切断」を入れてくる、というとこまで含めて、(図らずも、なのだろうが)ネタそのものが「キングオブコント」という形式の批判になってさえいると思った。 吉住は、演技・表現の豊かさ、細やかさは素晴らしいのだが、やや世界が狭いというか、毒や狂気のス

    2022/10/08 - 偽日記@はてなブログ
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    Imamu 2022/10/12
    「「最高の人間」のネタには「毒」にさらに加えて「批評的なねじれ(「世界」への批判的な眼差し)」が乗っけられている(よくある政治風刺のようなものではなく、もっと根本的なものとしての「批判」」
  • 2019-12-21 - 偽日記@はてなブログ

    ●RYOZAN PARK巣鴨で保坂和志の小説的思考塾vol.7(以下は、ぼくの主観や解釈が---おそらく勘違いなども---入っていて、正確なレポートではないです)。 今回は、いくつかの実例が示されながら、けっこう実践的なことが語られた。たとえば、村上春樹の「ウィズ・ザ・ビートルズ」(「文學界」八月号)という小説の一部が引用され(僕はこれを読んでいないが)、その細部が批判的に検討される。1964年に高校生だった語り手の《僕》は、学校の廊下で「ウィズ・ザ・ビートルズ」というLPレコードを《大事そうに胸に抱えてい》る《彼女》とすれ違う。そして《僕》の記憶ではそのレコードは、日国内盤でも米国盤でもなく、英国のオリジナル盤であることが《はっきりしている》、と書かれる。 しかし、まず第一に、1964年当時、日ではロックは一般的にシングルレコードによって受容されていて、アルバムとして聴かれるのは一般

    2019-12-21 - 偽日記@はてなブログ
    Imamu
    Imamu 2019/12/28
    「つまらない説明をする小説は、文が、スマホが「予測」する通りの展開をみせるので書き写すのが楽」
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●『響け!ユーフォニアム』、第六話。うーん、今回は、演出にしても作画にしても、いつものキレがなかった感じがする。今回のように、特に大きな出来事が起こるわけではない(しかし予兆を惹起する)インターリュードのような回こそ、演出のキレが試されるのだし、「ユーフォニアム」はまさにそこが素晴らしかったのだけど。 ただ、今回改めてすごいと思ったのが、黄前久美子の役を演じる黒沢ともよの演技だ。今回は、黒沢ともよの演技を堪能する黒沢ともよ回という感じ。そもそも、黄前のキャラは、主役キャラではなく、『ドカベン』でいえば殿馬のような、『ドラえもん』でいえばスネ夫のような、脇にいるべき曲者キャラが、表面だけ主役塗装して前に出ているような感じで、とても複雑で難しいキャラだと思う。それが成り立っているのはこの演技があってこそだろう。 高坂役の安済知佳の演技も絶妙だと思うけど、こちらは、オーソドックスな声優演技として

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    Imamu
    Imamu 2016/11/12
    『響け!ユーフォニアム2』第六話「様式化された「漏れてしまう声」~黒沢ともよの演技は、この「漏れてしまう声」に、様式に収まらない独自の屈折した表情と表現力を加える」
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●ぼくは基的には左利きだけど、矯正された左利きだ。箸は右手で持つ。絵は左手で描く。文字は、左右どちらでも書ける。 ふと思っただけだけど、矯正された左利きは、形式(抽象)主義的な傾向をもちやすいのではないか。右と左という価値(自然に選択される扱いやすさ)をいったん保留し、相対化した上で、意識的に反転させる、ということを、物心つかない頃から強いられるから。左手で箸を持つと、「お箸の手はそっちじゃないでしょ」と直され、左手で鉛筆をもつと、「鉛筆の手はそっちじゃないでしょ」と直される。この繰り返し。 とはいえ、左右は完全に対称というわけにはいかない。右手で絵が描けないことはないけど、やはり左手で描いてしまう(右手の方が下手ということはたぶんないと思うけど、左手の方がずっと描きやすい)。それに、文字を書くときも、右手で書くのと左手で書くのとでは感覚がことなる。右手で書く文字は、手の動きとして記憶さ

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    Imamu 2016/09/01
    「矯正された左利きは、形式(抽象)主義的な傾向をもちやすいのではないか。右と左という価値(自然に選択される扱いやすさ)をいったん保留し、相対化した上で、意識的に反転させる、ということを」
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●古がとても安く売っていたのでなんとなく買ってしまって、今更ながら『ゲーテル、エッシャー、バッハ』を読んでいるのだが、面白い。 最初の方で、MUパズルというパズルが出題されて、しばらくそのパズルをやってみるのだが、割とすぐに、そのパズルが決して解けないものだと気づく。 《形式システムについて考えるときは、次の点がとくに重要である。それは、システムの中で仕事をすることと、システムについて表現や観察を行うことを区別することである。》 しかし、そうはいっても実際は、MUパズルを解こうとすること(システムの中での仕事)をしているうちに、MUパズルが決して解けないものであることに気づく(システムについての考察)。このように、「解」が求められたところとは別のレベルであらわれ得るのは、われわれのするシステムの中の行為が、ほとんど自動的にシステムについての考察を含むものになるからだろう。階層はナチュラル

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    Imamu 2014/11/23
    「最近のすぐれたドラマでは、「階層の破れとシステムのレベルの移動」が、一時間のなかに何重にも仕組まれていることが多い」
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    ●恵比寿で、秘密の実験的集まり。今まで経験したことのないような頭の使い方を経験した感じ。とても面白いと思うので、上手くいけばいいと思う。 ●深夜アニメ。「極黒のブリュンヒルデ」の、12話になってからの(安っぽくて雑な)超展開にちょっと驚いた。作品世界をかなり大きく拡張するにもかかわらず、拡張された世界の設定のこの雑さ加減はなんなのだろうか、とあきれるような感じ。しかしこの作品に限っては、安っぽくなればなるほど、雑になればなるほど、痛々しさがリアルになってくる。ぼくにはこの作品は、アンチ「まどマギ」、アンチ「進撃」の、かなり説得力のある答え(対案)の一つであり得るように思われる。作品のクオリティという意味では、この二つの作品にまったく及ばないとは思うし、大ヒットするような感じではないと思うけど。

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    Imamu 2014/06/24
    極黒のブリュンヒルデ「ぼくにはこの作品は、アンチ「まどマギ」、アンチ「進撃」の、かなり説得力のある答え(対案)の一つであり得るように思われる」
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    ●雨が降っている。梅雨にはいった。五月が終わってしまった。 ●リュック・ベッソンの、無茶苦茶ポストモダンな新作を観た、という夢を見た。荷台全体に美少女キャラがびっしり描きこまれたごつい痛車トラックで旅をしているアウトサイダー(ヴィンセント・ギャロ風)とポニョもどきのキャラ(この部分だけアニメで、人面魚の姿で宙に浮き、主人公のまわりをくるくるまわりながら甲高い声――グーグーガンモ風――で喋る)の二人組が、荒廃した移民たちの街で、腐敗した警察とかモンスターとかとバトルするという、思い切り安っぽいつくりなのだが、妙に勢いがあって、リュック・ベッソンの映画を初めて面白いと思った、と、夢のなかで思った。どちらかというと、アレックス・コックス風か。戦闘モードになると、ポニョもどきのキャラが興奮して、奇声をあげながら高速回転でくるくる回りはじめ、そうすると痛車トラックがごつごつした装甲車(美少女イラスト

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    Imamu 2014/06/06
    「『極黒のブリュンヒルデ』を観ていると、何故か八十年代の蛭子能収のマンガを連想してしまう。とても安っぽいつくりで、しかしその安っぽさによって、陰惨さや痛々しさが増幅されているような感じが似ているのか」
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    ●すごく明るい月が出ていて、その前をはやい速度で雲がぐんぐん流れてゆくのをしばらく見ていた。『ゼロ・グラビティ』を観た後だと、夜空を見上げる感覚がすこしちがってくる。上下がひっくりかえるような感覚と、とりとめのなさへの恐怖のようなものが前面にでてくる。 ●『ゼロ・グラビティ』の3D映像を観ていてずっと、物が観客の方へとぐわーっと迫ってくるような描写に違和感をもっていた。例えば、人工衛星の破片のようなものが、観ているこちら側へ向かって飛んできて、これがこのまま飛んで来れば当然、自分に当たるか、あるいは傍らを通り抜けて後方へと飛んでゆくはずだというようなものが、途中で不自然に向きを変えて、フレームの外へと逃げてゆく。これがとても気になった。 映画にフレームがある以上、これはこうするしか仕方がなくて、もし、物がこちらへ飛んできて、傍らをかすめて後方へ飛び去る、というようなことを実現するのならば、

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    Imamu 2014/01/17
    『「音」にはフレームがない』「近代芸術~フレームに対する意識が前景化したものだ、とも」ゼロ・グラビティ「観客に対しては、安定的なフレーム(スクリーン)が確保されているからこそ~「空間の相対化」を経験」
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    ●『境界の彼方』についてもうちょっと。 秋人は、(性的な嗜好として)「メガネ美少女が好き」なのか、「メガネ美少女だから(メガネ美少女の一人として)未来が好き」なのか、あるいはただ(他ならぬ)「未来」が好きなのか。勿論、そのすべてだろうと思う。秋人の未来に対する「感情−関係の仕方」は複数の層に分裂しつつ重なっていて、分裂した層の上を場面ごとに行ったり来たりしている。どの層が表面化しているのかは、その時々によって異なる。秋人が新堂写真館から未来のコスプレ写真を買うのは、それが「メガネ美少女のコスプレ写真(嗜好性)」だからだし、「メガネをかけている未来のコスプレ写真(タイプ/トークン)」だからでもあるし、たんに「未来の写真(固有性)」だからでもある。あるいは、秋人が、「要するにメガネが大好きです」と言う時、「メガネ」が好きだと言っているのか、「メガネ美少女である未来」が好きだといっているのか、た

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    Imamu 2013/12/21
    『境界の彼方』「流れ(感情)でも絵(因果関係)でも表せないものが、表されている」「登場人物の感情に「流れ」として没入~流れが断ち切られるのが気に障る」「ツギハギして投げっぱなし~不満を感じるのだろう」
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    ●何日か前だけど、深夜にBSで『頭痛 肩こり 樋口一葉』(こまつ座)の舞台録画をやっていたのをなんとなく観ていて、その、ベタの上にもう一つ二つベタを重ねるような、徹底したベタさに軽いショックを受けた。演技もベタベタ、演出もベタベタ、台もベタベタ。分かり易く記号化された人物、はっきりと聞き取り易い(そして理解に迷うことのない)セリフ、曖昧さのないきっぱりした感情の動き、適度な抑揚はあるものの揺らぐことのない平明なリズム、戸惑うことのあり得ないきれいに図式的な設定と展開。笑いがあり、涙があり、適度な文化的香りと多少の啓蒙的要素がある。観客に一切の疑問を抱かせない親切なつくり。多くの人に「伝える」ためには、ここまで噛んで含めたような徹底した分かり易さが必要なのか。 ここには、ぼくが「作品」というものから感じる魅力的要素のほとんどが(そんなものは青二才のたわごとだと言わんばかりに)きれいに漂白す

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    Imamu 2013/12/06
    『目の前で、生身の人間によって演じられるからこそ、人物は身体性を捨てて記号になり切らなければならないし、セリフは声であることを捨ててテキストにリなり切り、物語は曖昧な細部を捨てて図式に』
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    ●両国のART TRACEで、シンポジウム「今、ここにある美術批評(誌)」。以下は、ぼくの感想というか、聞いていて勝手に考えたことであって、シンポジウムの内容の正確なレポートのようなものでは全くないです。 「批評」という言葉を使うことのめんどくささというのがあって、ぼくとしてはその言葉はなるべく使いたくないと思っているのだけど、星野太さんの発言を聞いてその理由がなんとなく分かった気がした。つまり、「批評」という言葉にはおおざっぱに言って二種類の意味がある、と。 例えば、ある状況があって、その状況に対して従来なされているもの、あるいは常識的なものとは異なる、新たな、刺激的な、創造的な、革命的な、そういうやり方で問い直しを行い、介入を試みることを「批評的な行為」と言うのだとすれば、それは至るところにあり、昔からあり、今もありつづける。そのような批評は遍在する。 しかしそれとは別に、日という場

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    Imamu 2013/09/28
    「制度のとしての批評の終焉は~価値の一般的基準(正しさ)の成立を~むつかしくする。だから、市場や社会の空気、評判のようなものに対抗すること~がむつかしくなる。勝ち馬に乗る、か、孤立する、か、という感じ」
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    ●国立新美術館へ行った。MOTへフランシス・アリスを観に行こうと思っていたのだけど、調べたら「貴婦人と一角獣」展が15日までで終わってしまうと知って、とりあえずこれは観ておこうと思って六木の方にした。グルスキーも、まあついでにという感じで。 ●アンドレアス・グルスキー展。観る前から分かっていたけど、嫌いなんだよなこういうの、と改めて感じた。この大仰な退屈さは何なのだろうか、と。たとえば、松江泰治を観るとあんなに興奮するのに、何故グルスキーではまったく興奮しないのだろうか、とか。写真で、細部が異様な解像度で詳細に写っていると、どうしたって細部に目が引きつけられてしまう。しかし、グルスキーの写真は、あんなにも細部が過剰なのに、そこに入ってゆく気がまったく起きない。この絶妙に「興奮しない感じ」こそがキモであり「現代美術」っぽさ(いかにもアートっぽい距離感)で、ある時期以降から現れた新しさである

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    Imamu 2013/07/13
    「退屈さと単調さは違う」「細部が過剰な写真~意識を過剰にすることで無意識までも意識へと巻き上げ~グルスキーの作品における過剰な視覚~無意識を強く抑圧するというような方向性をもつように」
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    ●西川アサキ「「この緑」をどうするのか?」(「現代思想」六月号)を読んだ。西川さんの論考はいつも「主体、心身問題、死」をめぐるものとなる。ただし、ここで主体とは、主体の能動性、責任、自由、あるいは自我などの問題とはほぼ関係のないものだろう。おそらくそれらのものはほとんど信じられていない。主体の問題が消えないのは「死の恐怖」があるからであり、そうである限り心身問題からも逃れられない。西川さんにとってはおそらく「心身問題」を説くということは死の恐怖を解除することであり、それが叶うとすればその時、主体(中枢)の問題は自動的に消失する、ということではないか。 過激な思想をもち、テリトリーを形成することなく(会社にも行かず家も持たず)、路上で野垂れ死ぬことは誰にでもできるはず(その自由は誰にでもあるはず)だ。その時はおそらく主体も心身問題も問題とはならなくなる。しかし、何故かほとんどの人はそうしない

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    Imamu 2013/06/06
    「主体や心身問題が「問題となる」~「どのようにしたらそれらが問題ではなくなるのか」を問うということ~それは、どうすれば死の恐怖から逃れ、抑圧的で一貫した主体化(この私)から逃れられるのかということ」
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    ●『たまこまーけっと』十一話。 たまこの「天然」さとはつまり、自身のテリトリーとアイデンティティとを絶対的に防衛しようとする働きからきている。この、揺らぐことのない「たまこナショナリズム」は、例えばもち蔵やみどりのたまこへの感情を「なかったことにする(気づかないことにする)」ことによって成り立つ。あるいは、「たまこ、幸せになれよ」という父の言葉を、「たまご、にわとりになれよ」と強引に(半ば意識的に)聞き違えることで成り立つ。鉄壁のガード。たまこの、商店街ともち屋への執着は、自身の過去と記憶への忠誠と服従を表わしている(例えば母の鏡台への献花)。周囲の人物すべてを、自身の過去と記憶をもとに配置し、世界がその軌道から逸れようとすると、そのズレを「なかったこと」にする。たまこは、この世界から一歩も出ないと自らに誓い、その法によって周囲の世界の安定(絶対的たまこ王朝)を維持する。世界は、世界を自ら

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    Imamu 2013/03/22
    『たまこナショナリズム~たまこへの感情を「なかったことにする』「外から来る者~同化~潜在的な次元~作動」「スタンプカード~過去と記憶の厚みの物象化」「ナショナリズムを危機に陥れたプログラムの根幹~王子」
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    ●『たまこまーけっと』2話。これすごいな。なにこのクオリティの高さ、と驚いてしまう。『中二病…』とは大きく異なった、デジタルエフェクトを最小限に抑えたフラットな画面の色彩設定の美しさにまず驚く。この色彩は『ピングドラム』を超えてるかもとさえ思った。あらゆる場面、あらゆるカットにおいて色彩の設定がかっこよく(その色がなぜそこにあるのかがいちいち納得できる)、密度があり、しかも決め過ぎていない。止まっている絵としての色彩配置ではなく、あくまで動いているものとしての色彩。かなり大胆に色を使っているけど全然下品にならないし、響きが濁らない。そして演出がまたすごく細やかで、細かいところまで芸が行き届き、効いてる感じ。1話の演出はちょっと鼻に着く感じだったのだけど、「いかにも」な感じがかなり抑制されていた。女の子の動きのとらえ方とか(カットがかわってパッとフレームが近寄るタイミングとか)、細かい動かし

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    Imamu 2013/01/17
    「「言葉をしゃべる鳥」の導入~虚構性の次元がひらけ~リアリズム~がそのまま抽象性(機能性、記号性、遊戯性)を帯びる」「観るべきものは意味ではなく、そこで展開されるフォーメーションとパスまわしとその効果」
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    ●『中二病でも恋がしたい!』。最終回は思いっきりベタにきて、そのベタを徹底してやりきっている感じ。中二病の恥ずかしさと、ベタをベタにやりきる恥ずかしさがある意味重なっていて、堂々とベタをやりきることが中二病の肯定となっている(「中二病」と「恋がしたい」という水と油のように相容れないものが、「恥ずかしさ」とそれを「やりきること」によって重なり、両立する)。ぼくが最初に期待していたものとはまったく違う作品になったけど、これはこれで大変に素晴らしかったと思う。ぼくはどちらかというと今まで京アニは嫌いだったのだけど、この作品を観て宗旨替えさせられた感じ。 あと、やはりこの作品の良いところは脇役のフォーメーションの見事さだと思った。一人一人のキャラが魅力的ということももちろんあるけど、それだけでなく、それぞれのキャラがきびきびとしたフォーメーションによって適宜位置を変え、役割を交代しながら、作品を生

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    Imamu 2012/12/21
    「祖父母の家でしかトガシ→タカナシ方向の(いわば「中二病」的)非公式ルートは開かない~だから、団地や学校という空間では、トガシはタカナシに「中二病やめろ」的な公式見解しか述べることができなかった」
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    ●身体は、ディシプリン(規律訓練)によって生まれる。ディシプリンがなければ身体はない。身体が規制されるのではなく、規制が身体となる。ディシプリンという言葉が強すぎるなら、それを習慣、あるいは作法やリズムと言い換えてもよいかもしれない。 例えば、正座をする身体は、正座というディシプリンによって生まれる。正座という習慣、あるいは作法、技法が、正座する身体をつくりだす。正座という習慣以前に、正座する身体(あるいは正座しない自然な身体)はない。そして、正座をする身体によって可能になる、何かしらの意味(精神?)が、おそらくある。 このような身体の生成そのものと、例えば、正座が出来ることが強要される社会的権力関係が存在すること、あるいは、正座が出来る/出来ないによって、何かの適合/不適合が判定されてしまう権力の場が存在してしまうこととは、別の問題として考えるべきだろう。ある身体の生成それ自体(それによ

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    Imamu 2012/10/01
    「身体は、ディシプリン(規律訓練)によって生まれる」「あらゆる物事を政治が汚染してしまうのだとしても、あらゆるものごとが政治に還元されるというわけでは」「身体は常に、「~である」と「~する」とを混同」
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    ●ゆっくり寝ているつもりだったのに朝早く目が覚めてしまう。疲れが残っている。延滞していたを返しに図書館まで歩く足取りも重い。 ●半年くらいかけて書いた短い小説(タイトルは「セザンヌの犬」)を発表できる目途がたった。とてもうれしい。 ●一昨日のことだったか、尾道の駅前ロータリーのベンチで休んでいたら、アンケートへの協力を求められた。だが、むしろこちらが聞き返す感じになった。「これから、なにをされる予定ですか」「ええと、なにかおすすめはありますか」「どこか、ここを見ようという場所はありますか」「ここは見とけ、というのはどこですか」「お土産は何か買われましたか」「この辺りはなにが名産なんですか」。 で、お土産のところで、「いやあ、広島が近いので、みなさんどうしても、もみじまんじゅうということになってしまうんですよねえ…」と残念そうに言っていたのが印象に残った。調査の客観性という点からみればこの

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    Imamu 2012/09/06
    「映画で重要なのは「演技」というより「描写」で~撮影された「この顔」を、どのようなタイミングで、どの程度の長さ見せるのか、ということがあってはじめて描写となる」