JR日豊本線が通る大分県中津市にある中津駅。中津といえば福沢諭吉の出身地であり、「中津からあげ」はご当地グルメとして全国的に知られるようになった。 「弁慶うどん 中津駅店」の唐揚げセット 中津駅の改札を出て、南口を駅沿いに少し進むと「弁慶うどん 中津駅店」が見えてくる。のれんをくぐり、店に入るとL字型のカウンターがある。 メニューはうどん・そばがメインで、「かけうどん・そば」(330円)、「きつねうどん・そば」(420円)といった定番から、九州北部のご当地グルメとして人気の「かしわうどん・そば」(420円)まで。他に「ごぼうてんうどん・そば」(420円)や「豚軟骨うどん・そば」(520円)なども用意している。 JR日豊本線の中津駅 中津駅近くにある「弁慶うどん」 カウンター席がある飲み屋のような雰囲気の店内 そしてこの店は、名古屋の駅にある立ち食い店のように「ちょい飲み」も楽しめる。酒類は
大分市は10日、豊予海峡を橋やトンネルで結ぶ「豊予海峡ルート」について、海底トンネルで同市と松山市間に新幹線(単線)を整備した場合の事業効果の試算を発表した。同区間の大分県側に1駅、愛媛県側に2駅つくる想定で、収益は1日当たり6800人の利用があれば黒字化する、としている。 利用者は、国の手法に基づけば1日あたり1万8千人になるといい、黒字化が見込める内容。 調査は2016年に続き2回目。16年はトンネルや橋、新幹線、高速道路など条件を変えた計11パターンを試算した。うちトンネル・新幹線(単線)案が事業費が最も安かったことからこの案について詳しく調べた。事業費は約6860億円。 事業費や便益のほか、運行ダイヤも試算した。同区間の所要時間は各駅停車の場合が52分50秒~59分、ノンストップの場合が36分20秒~42分40秒と見込まれ、1日32往復の運行ができると結論づけた。 佐藤樹一郎市長は
国東線(くにさきせん)は、かつて大分県杵築市の杵築駅から、国東半島東部にある同県東国東郡国東町(現・国東市)の国東駅までを結んでいた大分交通の鉄道路線である。 路線概要[編集] 駅および停留所同士の間隔が狭く、沿線集落の住民の生活に密着していた。国東半島はそのほぼ中心にある両子山から沿岸部に向かって幾筋もの谷が続き、その谷に沿って集落が点在している。したがって内陸の集落から沿岸部に出るのは比較的容易であるが、隣の谷筋に行くのは非常に不便であった。この点も考慮し、特に安岐駅以北は主要な谷筋ごとに必ず駅または停留所が配置されていた。潮干狩りの時期には臨時に「貝掘り列車」、花見の際には八幡奈多宮の「花見列車」を出した。また、みかんや七島イの輸送に使われたりと人々に長い間親しまれていた[1]。 千光寺の坂(八坂停留所 - 祇園駅間)、祇園の坂(祇園駅 - 若宮臨時停留所間)、塩屋の坂(志口停留所
花見、行商…暮らし支え 大分市内から大分空港(国東市安岐町)へ、直線となめらかなカーブが続く国道213号。ここにかつて線路があったことを知る住民は、その廃線を今でも惜しむ。大分交通の国東線(旧国東鉄道)は大正-昭和時代、半島沿岸部に住む人々の暮らしを支えたが、1966(昭和41)年、豪雨により橋脚が流失して廃線に追い込まれた。 「朝は、病院や学校へ行く人。最終便は酔っぱらい。それぞれの降りる駅を聞いちょって、声を掛けたりもしたな」。国東線で車掌を務めた渡辺広幸さん(85)=国東市国東町=が振り返る。「客が多すぎて、車掌は乗降口を両手でつかんで、車外にぶら下がったこともあったわ」 同線は地元実業家らが出資した「国東鉄道株式会社」が線路を敷設し、22(大正11)年に開通した。当初は線路幅の狭い軽便鉄道の計画だったが、国鉄と同じ1067ミリ幅の線路を杵築駅から分岐させ、国東との間を結んだ。国鉄の
筑後軌道(ちくごきどう)は、福岡県久留米市と大分県日田市を結んでいた軌道線。 概要[編集] 久留米-日田間を鉄道で結ぶ計画は1899年(明治32年)に西洲鉄道(久留米-豆田間28哩24鎖、資本金250万円)[注釈 1][3]の計画があったが不況により停滞していた。このため見切りをつけた発起人達は建設費の廉価な馬車鉄道に方針を変更した。1901年(明治34年)10月18日出願し、1902年(明治35年)5月10日に特許状が下付された。浮羽郡、三井郡の素封家たちにより会社を設立[4]。商号は吉井馬車鉄道としたが、筑後馬車鉄道に改められ[5]1903年(明治36年)10月吉井町 - 田主丸間が開業しその後徐々に延長し豆田まで開通したのは1916年(大正5年)のことであった。 当初は県道上に馬車軌道を敷設しただけの簡素なものだったが、後に石油発動車(焼玉エンジン動力の小型石油機関車、通称「駒吉機関
夜明ダム上流の筑後川に姿を現した「筑後軌道」の遺構。川左岸の森林の真下に、高さ約5メートルの軌道敷の石積みが約1キロにわたって続く。手前は舟が通ったとされる水路(小型無人機から) 夜明ダム(大分県日田市)上流の筑後川で、大正・昭和初期に日田市と福岡県久留米市を結んだ軽便鉄道「筑後軌道」の遺構が姿を現した。 7月の九州北部豪雨の影響で、ダムの水門が開放され、水位が下がったためだ。今月下旬頃には水位が戻る予定で、鉄道ファンらが珍しい光景を求めて集まっている。 地元の市民団体「筑後軌道調査会」によると、筑後軌道は1916年(大正5年)に日田―久留米間約45キロが全線開通した。蒸気機関車が約3時間半で結んでいたが、国鉄久大線の延伸に伴い、昭和初期に廃線となった。54年にダムが完成し、遺構の一部は水没した。 露出した遺構は、高さ約5メートルの軌道敷の石積みで、川の左岸に約1キロにわたって確認できる。
久大本線(きゅうだいほんせん)は、福岡県久留米市の久留米駅から大分県大分市の大分駅に至る九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。「ゆふ高原線」の愛称がある[1]。 概要[編集] 路線名の由来は久留米と大分を結んでいることから。豊肥本線(熊本駅 - 大分駅)とともに、九州を横断する鉄道路線である。 大分県九重町と由布市の境にある分水嶺の水分峠より西側は筑後川(三隈川)とその支流の玖珠川に沿って、東側は大分川に沿って九州を横断している。沿線には大分県の小京都といわれる日田や温泉地の由布院などの観光地を控えている。福岡県福岡市の博多駅から鹿児島本線久留米駅経由で由布院や大分・別府を結ぶ特急「ゆふ」や「ゆふいんの森」が運行されている。 2016年(平成28年)12月22日より、リアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」が開始され、列車位置情報がスマートフォンアプリ「JR九州アプリ
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