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人>美術意匠と趣味>昭和に関するhozhoのブックマーク (14)

  • 【本と名言365】剣持勇|「デザインは本来アノニマスなものであり、…」

    November 8, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda    text_Yoshinao Yamada   illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper) これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。戦後日にデザインという概念を根付かせたデザイナーの一人、剣持勇。ジャパニーズ・モダンという概念をいち早く持ち込み、そこから大きな論争も生んだ剣持にとってデザインとはどのようなものだったのだろう。 デザインは来アノニマスなものであり、必要性と必然性がぴったり密着していなくてはならない 戦後日のデザイン黎明期に、その概念を人々に広く伝えたデザイナーの一人が剣持勇だ。丹下健三の〈香川県庁舎〉や大谷幸夫の〈

    【本と名言365】剣持勇|「デザインは本来アノニマスなものであり、…」
    hozho
    hozho 2023/11/12
    “戦後日本のデザイン黎明期に、その概念を人々に広く伝えたデザイナーの一人が剣持勇だ。”
  • 坂倉準三 - Wikipedia

    坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日館の設計を手がけ、日のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる[1]。 経歴[編集] 1901年(明治34年) - 岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(現・羽島市)で酒蔵である千代菊の坂倉又吉の4男として生まれる。 1916年(大正5年) - 岐阜県立岐阜中学校に入学。 1920年(大正9年) - 第一高等学校文科入学。 1923年(大正12年) - 東京帝国大学文学部入学。 1927年(昭和2年) - 東京帝

    坂倉準三 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2022/11/27
    “坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。”
  • 白井晟一 - Wikipedia

    この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(芹沢銈介の3文字目、白井昱磨の3文字目)が含まれています(詳細)。 試作小住宅(現・顧空庵) 1953年。東京都世田谷区から秋田県湯沢市に移築 湯沢酒造会館(秋田県湯沢市) 旧雄勝町役場(秋田県湯沢市・現存せず) 白井 晟一(しらい せいいち[1]、1905年(明治38年)2月5日[2] - 1983年(昭和58年)11月22日[3])は、日の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる[4]。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた[1]。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家[1]」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある[4]。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる[4]。 生

    白井晟一 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2021/11/22
    “白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。”
  • 孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート

    November 22, 2021 | Architecture, Design | casabrutus.com | photo_Shin-ichi Yokoyama   text_Naoko Aono   editor_Keiko Kusano 哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。 〈懐霄館(親和銀行電算事務センター)〉(1973-75年)。第1期、第2期に続いて白井晟一が手がけた長崎県の〈親和銀行店〉第3期計画として作られたもの。巨大なコンピュータを収めるための施設だが、水盤のある吹き抜けや噴水のある10階サロンなど、人間の思索の場をも内包するかのような建物となった。撮影:柿沼守利。

    孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート
    hozho
    hozho 2021/11/22
    “哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日本建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日本建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。”
  • 「篁 牛人〜昭和水墨画団の鬼才〜」 | 青い日記帳 

    大倉集古館で開催中の 特別展「篁 牛人〜昭和水墨画団の鬼才〜」に行って来ました。 https://www.shukokan.org/ 海外ならまだしも日の画家で『日美術全集』に掲載されていながら、ほとんど存在すら知られていない篁牛人。 その篁牛人(たかむらぎゅうじん、1901〜1984)を紹介する初めての展覧会が大倉集古館で開催され静かな話題になっています。 自分も少し前に拝見してきたのですが、2週間が経過した今でも消化不良気味で篁牛人の凄さを、言語化できずにいます。 篁牛人「西王母と小鳥」昭和44年 富山県水墨美術館 非常にパワフルな作品が多くとてもこれが水墨画であるとは目の前に立っても理解するのに時間を要します。 人は観たことのない作風に出会うと時として思考を停止してしまうものです。「篁牛人展」でもしばしばそれが起こりました。 牛人は水墨画家ですが、一般的な水墨画とはかなり印象が違

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    hozho 2021/11/21
    “日本の画家で『日本美術全集』に掲載されていながら、ほとんど存在すら知られていない篁牛人。 篁牛人(たかむらぎゅうじん、1901~1984)を紹介する初の展覧会が大倉集古館で開催され静かな話題になっています。”
  • 黒柳徹子にも影響を与えた“カワイイの生みの親”内藤ルネの功績 | マネーポストWEB

    SNSを開けば「#クリームソーダ」だけで50万件以上の投稿が集まる。純喫茶や銭湯、フィルムカメラ、アナログゲームやライフスタイルなどでは、昭和のレトロなモノがY世代、Z世代と呼ばれる若者を中心にロングヒットを続けており、もはや一過性の現象とはいえない感がある。 昭和育ちには古いと感じるモノが、彼らにとってはなぜ“エモい”と映るのか。昭和に流行したガラス器の復刻版「アデリアレトロ」を製造する、石塚硝子の広報・川島健太郎さんは、次のように分析する。 「生まれたときからデジタル環境が整った中にいる世代は、デジタル機器に便利さの半面、無機質な冷たさや味気なさを感じており、だからこそ、レトロなデザインや不便なアナログ製品を新鮮に感じるのだそうです。 器の世界でいえば、いまは100円ショップでもおしゃれなカップは買えますが、それを画一的で物足りないなと感じる人々が、心を揺さぶられる昭和レトロな

    黒柳徹子にも影響を与えた“カワイイの生みの親”内藤ルネの功績 | マネーポストWEB
    hozho
    hozho 2021/09/23
    “戦後の昭和は、テレビや漫画、ファッション、娯楽などの“ポップカルチャー(大衆文化)”が花開いた時代だが、いまや世界の共通語となった「カワイイ」の萌芽も、この時代にあった。その先駆者が、内藤ルネだ。”
  • SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

    サービス終了のお知らせ SankeiBizは、2022年12月26日をもちましてサービスを終了させていただきました。長らくのご愛読、誠にありがとうございました。 産経デジタルがお送りする経済ニュースは「iza! 経済ニュース」でお楽しみください。 このページは5秒後に「iza!経済ニュース」(https://www.iza.ne.jp/economy/)に転送されます。 ページが切り替わらない場合は以下のボタンから「iza! 経済ニュース」へ移動をお願いします。 iza! 経済ニュースへ

    SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト
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    hozho 2021/04/09
    “東京・銀座の「中銀カプセルタワービル」で知られる黒川紀章氏(1934-07)設計の「カプセル建築」の一つで、50年間非公開だった「カプセルハウスK」(長野県御代田町)が5月に一般公開される。”
  • 佐藤玄々 - Wikipedia

    佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年8月18日 - 1963年9月14日)は、20世紀の日で活躍した彫刻家。 略伝[編集] 福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する[1]。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院と

    hozho
    hozho 2020/12/12
    “佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年8月18日 - 1963年9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。”
  • 知っていますか? 日本橋三越本店本館のホールにある「天女像」と、彫刻家・佐藤玄々のこと。|さんたつ by 散歩の達人

    東京・日橋のすぐそばにある日橋三越館。その中央ホール吹き抜け部分に何が置かれているか、パッと答えられる人はどれだけいるだろうか。 正解は、全長10.91メートル、重さ6750キロの巨大な木造彫刻「天女(まごころ)像」だ。いつでも建物の中心に極彩色の巨大な像がそびえたっているのだ。 最大の特徴は、過剰な装飾。三越によれば、この像は「天女が瑞雲に包まれて、花芯に降り立つ瞬間の姿」が表現されているという。その天女の背景部分がとにかく密、なのだ。白い天女の顔がにわかに見つけられないほど、後背部は雲の渦やたなびく衣で埋め尽くされている。裏側の雲中には48羽の鳥が飛び、台座部には宝石がびっしりと並ぶ。うねるようなそれらの装飾はすべて木で精巧に彫られ、合成樹脂で溶いた岩絵具で彩色されたもの。ただごとではない過剰さ、手の込み様である。ホール壁面の赤、卵黄色の大理石と天女像の色彩は見事に調和し、吹

    知っていますか? 日本橋三越本店本館のホールにある「天女像」と、彫刻家・佐藤玄々のこと。|さんたつ by 散歩の達人
    hozho
    hozho 2020/12/12
    “佐藤玄々は、まぎれもない天才だった。だが、現在その名は広く知れ渡っているとはいえない。「幻の天才」と呼ばれてきた。代表作である天女像を公共の空間でいつでも見られること自体が、実は尊いことなのだ。”
  • 谷中安規 - Wikipedia

    自画像 谷中 安規(たになか やすのり、1897年(明治30年)1月18日 - 1946年(昭和21年)9月9日)は、昭和時代前期の日の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。 生涯[編集] 奈良県桜井市初瀬の生まれ。6歳で母と死別、1904年(明治37年)父と朝鮮の京城に渡る。単身帰国し、東京の豊山中学に通うが学資が続かず中退、以後放浪生活を続ける。1922年(大正11年)日美術学院出版の永瀬義郎著『版画を作る人へ[1] 』から影響を受け、その書籍をもとに独学で木版画製作を始める。その後、1924年(大正13年)第一書房に勤め、社主の長谷川巳之吉に画才を認めらる[2]その頃長谷川から日夏耿之介、堀口大學、佐藤春夫、与謝野晶子らを紹介される[3]。1926年(大正15年または昭和元年)日夏耿之介の紹介で永瀬義郎指導下に木版画家を目指す[4]。1931年(昭和6年)に日版画協会の

    谷中安規 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2020/11/07
    “谷中 安規(たになか やすのり、1897年1月18日 - 1946年9月9日)は、昭和時代前期の日本の版画家・挿絵画家。通称〈アンキ〉とも言われる。”
  • 公団晴海高層アパート15号館 - 都市徘徊blog

    東南側から 公団晴海高層アパート15号館 所在地:中央区晴海1-6 建設年:1957(昭和32) 構造 :SRC 階数 :10F 設計 :前川国男 備考 :1997年解体、高層住宅に建て替え。 Photo 1996.5.25 西側から 北側から 北西側ファサード 2戸×3層=6戸を1ユニットとした構造 エレベーターホール EVは1F・3F・6F・9F階に停止。この他の階の各戸は通路階から階段で上下にアプローチする 1F外階段室 通路手摺 6F通路の様子 通路は3F・6F・9Fの3層おき。この通路から階段を介して上下階の住戸にアプローチする。 通路の様子 やや階高が低い Wikipedia > 晴海団地 Tokyo Lost Architecture #失われた建物 中央区 #公営・公団・公社・公立住宅 #モダニズム #前川國男

    公団晴海高層アパート15号館 - 都市徘徊blog
  • 東山魁夷 - Wikipedia

    東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日~1999年(平成11年)5月6日)は、日の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる[1]。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民[2]。名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。 来歴・人物[編集] 船具商を営んでいた父・浩介と・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)の日画科へ進学した。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。1931年に美術学校を卒業した後、1933年、ドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学。1934年日ドイツとの間で交換留学制度が始まり、

    東山魁夷 - Wikipedia
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    hozho 2018/11/11
    “東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年(明治41年)7月8日 - 1999年(平成11年)5月6日)は、日本の画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。”
  • 「太陽の塔」内部を修復・公開 岡本太郎の思い再現 - 日本経済新聞

    大阪府の万博記念公園にある岡太郎「太陽の塔」の内部が修復され、48年ぶりに一般公開された。原始生物からの進化を示す「生命の樹」などの作品は、現代に通じる問いを投げかける。赤い内壁に囲まれた塔内で、ダイナミックに枝を広げる「生命の樹」。鋼管製の体や幹に、古代から生息するウミユリやアメーバ、恐竜、クロマニヨン人など、183体の生物模型が取り付けられている。高さは約41メートル。黛敏郎作曲「生命

    「太陽の塔」内部を修復・公開 岡本太郎の思い再現 - 日本経済新聞
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    hozho 2018/03/28
    “大阪府の万博記念公園にある岡本太郎「太陽の塔」の内部が修復され、48年ぶりに一般公開された。原始生物からの進化を示す「生命の樹」などの作品は、現代に通じる問いを投げかける。”
  • 【「生命の樹」をご覧あれ】太陽の塔、半世紀ぶりに内部を一般公開

    hozho
    hozho 2018/03/20
    “1970年日本万国博覧会(大阪万博)のシンボル「太陽の塔」(大阪府吹田市、高さ約70メートル)の内部の一般公開が19日から始まった。”
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