横浜市市史資料室で開催されている写真展、 「戦後の風景 占領から復興へ」を観てきた。 展示されている写真は、横浜の郷土史家であり 「宮川香山 真葛ミュージアム」の館長も務める山本博士さん所蔵のもの、 及び、山本さんのコレクションの中から市史資料室に寄贈されたもの。 戦後すぐの光景というとモノクロ写真を思いうかべるが これは明るいカラー。 だからというわけではないがカルチャーショックを受けた。 この時代の横浜に関して、私はこれまで、暗い面のほうを 多く見たり読んだり聞いたりしてきた。 でもこの写真展の横浜は違う。 大空襲で焼け野原になってから、まだ数年しか たっていないというのに、活気が凄い。 人々が大挙して街に繰り出している。 表情にも暗さはない。 店はちゃんと営業している。 お祭りに行く子供たちは可愛い浴衣姿。 数々の展示写真は撮影禁止だったので紹介できないが このチラシだけ見てもそれが
ココがキニナル! かつて力士として存在した磯子山は、以前、磯子区の岡村町付近にあった磯子山と関係しているのでしょうか?ぜひ調べてください。(hidekunさんのキニナル) はまれぽ調査結果! 力士・磯子山との関係は不明。だが、旧・磯子山に近い岡村天満宮と大相撲は深~い結びつきが。さらにそこから、戦争によって途絶えた岡村天満宮の幻の遷座がよみがえる! そもそも磯子山ってどこだ? hidekunさんのキニナル投稿には、さらりと「磯子区の岡村町付近にあった磯子山」と書いてあるが、現在の地図で見てもその場所はわからない。 赤枠内が磯子区岡村町 また、図書館に行って分厚い磯子区の郷土資料に目を通しても「磯子山」の記述はなかなか見当たらない。 こんなとき、ニッチな地域の歴史を調べるのにとても役立つのが、その地域の小学校の周年記念冊子だ。横浜市立磯子小学校の『創立130周年記念資料集 わたしたちのまち磯
2021年2月3日から5月10日まで、国立新美術館で─佐藤可士和展─が行われているが、過日、展示の一例でもある「UR洋光台団地再生プロジェクト」に関するイベントが同所で行われた。プロジェクトの主体であるUR都市機構をはじめ、建築家の隈研吾、ブックディレクターの幅允孝など、プロジェクトに関わった多数のメンバーが集結。本事案についての魅力について語られた。 団地の再生───、このプロジェクトは構想から10年の歳月を要した。その場所に住んでいる人たちがいる中で、まるごと価値を上げるという試みは、人口減少、都市部への人の集中、高齢化社会にコミュニティの希薄化など、日本の持つさまざまな課題に一石を投じる好例となった。 リニューアルした洋光台団地北エリアの広場 URの課題は、日本の課題でもある 日本の人口は2004年を境に減少し続け、令和になってもその流れは止まらない。出生数も毎年前年を下回る状況が続
些細なテーマだが スルーしたくない横浜ネタを掘り出す。 昔の横浜を舞台にした映画やテレビドラマを時々見直しているが 時折 <嘘つけ!!>という情報に出会うので 【横浜備忘録】 ■映画「密航0ライン」 製作年:1960 公開年月日:1960年(昭和35年)6月25日 監督:鈴木清順 構成:棚田吾郎 伊賀逸兵 脚本「横山保朗 撮影:峰重義 キャスト 香取耕一=長門裕之 仁科達男=小高雄二 香取寿美子=清水まゆみ 佐伯玲子=中原早苗 李鮮信=小沢昭一 島村健介=木浦佑三 千葉伸次=高品格 他 https://www.nikkatsu.com/movie/20457.html 非情に生きる社会部記者とその好敵手が、強大な麻薬ルートに特ダネを求めて潜入するスリルとスピードに富んだアクション篇。 ここに示されている日活のオフィシャル情報に一言 <嘘つけ!!> 日活オフィシャルでは ■ロケ地 【東京都】
廃なるものを求めて廃なるもの、すなわち廃線跡、廃墟、その他うんぬん。写真作家の吉永陽一が朽ちていくものをじっくりしっとり、ときには興奮しながら愛でていく連載。 皆さん、国道駅という駅を聞いたこと、訪れたことがありますか? このストレートなネーミングの駅は、JR鶴見線鶴見駅の隣にある高架駅です。国道15号に面しており、駅名はその国道が由来です。この駅を目的に訪れる人々が絶えることがなく、鉄道ファンや旅人には名が知れた駅です。 なぜそんなに注目されているのかというと、国道駅は昭和5年(1930)に開業した高架構造の雰囲気を、今も色濃く残しているから。 高架下はコンクリートのアーチ型が続き、「レトロでノスタルジック」な佇まいが人気です。 生まれも育ちも東京都だが大阪芸術大学写真学科卒業。空撮を扱う会社にて空撮キャリアを積み、長年の憧れであった鉄道空撮に取り組む。個展や書籍などで数々の空撮鉄道写真
神奈川県警山手署で、管内にかつて居住していた米軍関係者の警備のための交番など、昭和時代の写真約40点が見つかった。最も古い写真は昭和30年の撮影。交番の正面に「POLICE BOX」と書かれ、英語併記の道路標識が写り込むなど、神奈川の戦後の歩みを示す貴重な資料だ。一部は署1階のロビーに展示している。 横浜市の中区や磯子区の一部は戦後、米軍に接収され、軍関係者の住宅が並んでいた。写真は、手書きの地図や交番の間取り図などと一緒に署の書庫で見つかった。 写っていたのは1950~70年代当時の交番19カ所。ほとんどが木造で質素な造りであるのが分かる。 米軍関係者の住宅などを警備するため戦後間もなく開設され、当時は「連絡所」と呼ばれた交番3カ所の写真も含まれていた。連絡所はいずれも昭和38年に廃止。署は「接収解除の動きを受け、廃止された可能性がある」と推測する。 現在の山手署周辺は、横浜を代表する高
横浜市は、横浜市営地下鉄ブルーラインを延伸する事業を進めている。現在の終点あざみ野駅から、川崎市内を通り、小田急電鉄の新百合ヶ丘駅まで延伸する。 横浜市営地下鉄ブルーライン、延伸予定の概略ルートと駅位置図(2020(令和2)年横浜市・川崎市記者発表資料より) 延伸区間「あざみ野~新百合ヶ丘」の新駅予定地は、嶮山(けんざん)付近、すすき野付近、ヨネッティー王禅寺付近、新百合ヶ丘駅南口付近の4カ所で、駅名は未定。延伸区間の移動時間は、現在、路線バスを利用すると約30分だが、同区間の地下鉄が開通すると、約10分に短縮される。 横浜市営地下鉄の歴史、新ルートが決まるまで 特集をもっと読む 横浜市営地下鉄は1972(昭和47)年に伊勢佐木長者町駅-上大岡駅間が1号線として開業後、5回の延伸を経て、1999(平成11)年の第6期開業時に現在の路線になった。ブルーラインは、湘南台駅 - 関内駅間の1号線
薄くて丸いパリパリのせんべいが、一口かむとさくっと砕けて、ほのかな甘みとともに口の中で溶ける。紙芝居屋が公園で子供たちに販売していた昭和の名残を感じさせる昔ながらの駄菓子「ミルクせんべい」の味を、今も守る企業が横浜市保土ケ谷区にある。住宅街の一角に自宅兼工場として居を構える「花丸本舗」。早朝から深夜まで稼働するやさしい香りの漂う工場は「横浜の味を未来につなげたい」と、今日も奮闘を続けている。 ミルクせんべいの考案者は、佐藤登志郎社長(68)の父、三治さんだ。戦後、兵役から戻った三治さんは昭和23年、愛知県のえびせんべいから着想を得たせんべい作りを開始。「子供たちに栄養を」と小麦粉やコーンスターチに脱脂粉乳を配合し、やさしい味が人気になった。 ◆戦後の子供のため 三治さんは暇を見つけては、関東近郊でミルクせんべいの製造方法を教えて歩いていたという。高温で焼く製造過程で水分が飛ぶため、腐敗しに
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "桜木町事故" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年5月) 桜木町事故(さくらぎちょうじこ)は、1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、神奈川県横浜市の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線支線(京浜線。現在の京浜東北線及び根岸線の一部)の桜木町駅[注釈 1]構内で発生した列車火災事故。死者106人、負傷者92人に及ぶ被害を出した。 出火原因は電気工事作業員のミスにより垂れ下がっていた架線に列車が接触してショートしたことであるが、乗客は非常時にドアを自力で開けることができず、また隣の車両へ移ることも、窓から脱出すること
日本郵船は7月23日、同社が所有する「氷川丸」が「昭和初期の技術を今に伝える現存貨客船」として日本船舶海洋工学会が主催するふね遺産に認定されたと発表した。 <氷川丸> <写真右から日本船舶海洋工学会 柏木正会長と「氷川丸」金谷範夫船長> 「氷川丸」は戦前の日本で建造された大型貨客船として唯一現存する船舶で、日本郵船が横浜市の山下公園前で係留し一般公開している。2016年に重要文化財に指定され、2018年4月に竣工88周年を迎えた。 ふね遺産認定は、歴史的で学術的・技術的に価値のある船舟類およびその関連設備を社会に周知し、文化的遺産として次世代に伝えることを目的として、昨年度から実施されている。 ■氷川丸主要目 船種:貨客船 造船所:横浜船渠(現三菱重工業 横浜製作所) 竣工:1930年4月25日 全長:163.3m 幅:20.1m 総トン数:1万1622t 最高速力:18.38ノット(時速
お使いのInternet Explorerは古いバージョンのため、正しく表示されない可能性があります。最新のバージョンにアップデートするか、別のブラウザーからご利用ください。 Internet Explorerのアップデートについて 横浜スタジアム(横浜市中区)が誕生する14年前、東京五輪のあった1964年に作成された「幻のハマスタ」の計画図が見つかった。描かれたのは、ダンスホールやスケート場を併設した先駆的な総合施設。折しも2度目の東京五輪に向け改修工事が進む中、半世紀余り前の“夢”にも光が当たった。ハマスタは4日に40周年を迎える。 【ハマスタ】幻の計画図の写真 A1判の青焼き図面6枚で、筒の中に丸められ同スタジアムの倉庫にしまわれていた。各図には「横浜スタジアム計画案」のタイトル。現在と同じ名前が既に用いられていた。 計画案は2種類あり、一方は6階建ての観客席を擁した収容力のあるプラ
1930年(昭和5年)に発行された「東京横濱電鐵」の沿線案内を兼ねた路線図の一部です。 1930年(昭和5年)に発行 この路線図をネタにこの時代を少し読み解いてみます。 現在と異なっているのが、 ○国鉄線の「程が谷」→「保土ケ谷」 一昔前は「保土ヶ谷」でしたが近年は「保土ケ谷」表記要請もあり変更されています。 この駅は1887年(明治20年)7月11日に東海道本線が開業し「程ヶ谷駅」として開業し、1931年(昭和6年)10月1日に保土ヶ谷に改称します。 現在「保土ケ谷駅」は横須賀線の駅で、東海道線は止まりません。 1930年(昭和5年)3月15日に横須賀線が電化されたことをきっかけに通過駅となりました。 ○湘南電車黄金町駅→「京浜急行黄金町駅」 この路線図が発行された1930年(昭和5年)がポイントです。この年の4月1日に湘南電気鉄道が黄金町を始発駅として浦賀駅まで、また同時に金沢八景駅か
終戦直後の福富町 この写真は約7割が空となっています。 カメラマンは何故? 敢えてこの広い空を構図の中に取り込もうとしたのでしょうか? 撮影場所は野毛山中腹(現在の西区東ケ丘あたり)かプール(今無い)あたりか? <風景を読む> 手前に京浜急行が走り、日ノ出町駅舎は隠れて見えません。 高架線の途中にある構造物は京急の変電所でしょう。 その先には大岡川が流れ、アーチ橋長者橋、左側に桁橋宮川橋が見えます。 福富町の殆どが空襲で焼失し、米軍によって整地され、接収の準備が始まっています。 後にこのエリアには第八軍宿舎(カマボコ兵舎)が立ち並びますが まだ臨時のテント設営段階のようです。 横浜関内外エリアは戦後、ほとんど接収となり戦後復興が滞りました。 このエリアは、開港後の「慶応の大火」以降 「関東大震災」「横浜大空襲」「戦後接収」と地域の機能不全の中から立ち上がってきた経験があります。 遠景のスカ
ココがキニナル! 扇島は昭和30年ごろまで、海水浴場として有名だったそう。扇島は夏場は20万人の人出で賑わっており「ポンポン船」という船で、海水浴客を運んでいたそうです。当時の様子と扇島の歴史が知りたい(ねこぼくさん) はまれぽ調査結果! 鶴見沖に浮かぶ扇島は京浜地区開発の偶然から人の手が生み出した海の楽園だった。昭和5年に開業した海水浴場は約30年に渡り、多くの人に愛された 扇島とは 扇島は鶴見区安善町と大川町の沖に浮かぶ人工島であり、現在は全体がJFEスチールの私有地であるため関係者以外立入禁止の島でもある。 安善町から海の向こうに味わい深い標識とともに眺めた夕闇に浮かぶ扇島 JFEスチールは、2002(平成14)年にNKK(日本鋼管)と川崎製鉄の経営統合で発足したJFEホールディングスのもと、2003(平成15)年に設立された企業である。扇島は統合した一方である日本鋼管が、10ヶ所に
▲京浜運河に面した鶴見線海芝浦支線の最終端部。この付近は現在は「海芝公園」と称するミニ公園となっている。'79.4.21 海芝浦 クリックするとポップアップします。 改札口を出ることのできない奇妙な駅、海に面したいわゆる"秘境駅"としてメディアでもたびたび取り上げられている鶴見線の海芝浦駅。先日探し物をしていた際にふとこの海芝浦駅のネガに手が止まりました。 ▲海芝浦のホームで折り返しを待つ鶴見行き72系。国鉄末期にはクモハ12も鶴見〜海芝浦間の運用を持っていた。ちなみに一般人が立ち入れるのはこの構内踏切までで、画面左手はすぐに東芝の構内となっている。'79.4.21 海芝浦 クリックするとポップアップします。 時は1970年代末。17m車が激減したとはいえ、鶴見線はまだまだ旧型国電の天下でした。鶴見臨港鉄道を祖とする鶴見線は臨海部の工業地帯に深く入り込み、その最たるものが、一般乗客が駅構内
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