タグ

趣味>建築土木と趣味>昭和に関するhozhoのブックマーク (46)

  • 高度経済成長期の名建築を次世代に伝えたい : THINK MOBILITY

    私もよく利用する東京のターミナル、新宿駅西口の再開発が格化しています。駅前広場を囲んでいた新宿スバルビルと明治安田生命新宿ビルが取り壊されたのに続き、小田急百貨店新宿店館も姿を消し、吹き抜けの中を地下駐車場にアクセスするらせん状のスロープが巡る地下広場は、工事のための巨大な構造物で覆われました。このあとスロープも撤去されるとのことです。 新宿駅西口の再開発の内容については、下で紹介しているように、ブログでも2020年10月に取り上げました。そのときは具体的な動きが始まったばかりでもあり、漠然と見ていましたが、小田急百貨店が消え、地下広場が蓋で覆われた状況を目にして、残念という気持ちが大きくなりました。どちらも昭和を代表する建築家のひとり、坂倉準三氏の作品であることも大きいと思います。 これに限らず最近、高度経済成長期に生まれた名建築が、全国各地で姿を消しつつあります。坂倉氏が生まれ故郷

    高度経済成長期の名建築を次世代に伝えたい : THINK MOBILITY
    hozho
    hozho 2024/03/03
    “最近、高度経済成長期に生まれた名建築が、全国各地で姿を消しつつあります。”
  • 渡邊洋治 - Wikipedia

    第3スカイビル(現:GUNKAN東新宿ビル)全景 ニュースカイビル 渡邊洋治(わたなべ ようじ、1923年6月14日 - 1983年11月2日)は、新潟県直江津市(現:上越市)出身の建築家。 陸軍船舶兵出身で随所にその影響がうかがえる独特のデザインの建築物を手がける。狂気の建築家、異端の建築家と呼ばれた。代表作に第3スカイビル(鉄のマンション)。この東京都新宿区職安通り沿いに残る通称「軍艦マンション」第3スカイビルなどの建築のほか、黒マジックペンを使用し背景を黒くして描かれる数々のコンペ案のドローイングで著名。そのため勤務していた大学の大学院生らに「マジラ」とあだ名をつけられ、また師の吉阪隆正によると、万博会館コンペ審査で浦辺鎮太郎から「鬼軍曹」と命名されたという。 建築設計事務所をはじめた当初は日古来の木造工法を用いた作品を多く発表。コンクリート造では大スパン工法を用いていた。その後ユ

    渡邊洋治 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2023/12/10
    “渡邊洋治(わたなべ ようじ、1923年6月14日 - 1983年11月2日)は、新潟県直江津市(現:上越市)出身の建築家。”
  • 日本のブルータリズム建築

    日本のブルータリズム建築
    hozho
    hozho 2023/05/13
    “1960〜70年代を席巻した「ブルータリズム建築」は、近年、世界中で再評価されている。建て替えによって失われつつある日本のブルータリズム建築について、豊富な写真と解説で紹介し、その魅力に迫る。”
  • “未来を夢見た建築” ブルータリズムを巡る。

    1950年代末〜70年代にかけて、日の建築界を席巻したブルータリズム建築。ブルータリズムとは、機能や材料などをそのまま形に表したデザインの建築を指す。日では庁舎や学校などの様々な建物がこの様式で建てられたが、70年代頃になると次第に下火となり、その潮流はポストモダン建築へと変わっていった。 『日のブルータリズム建築』は、建築ジャーナリストの磯達雄が日各地のブルータリズム建築から厳選した9件をまとめた1冊。これまで年代を問わず多くの建築を見てきた磯だが、中でもブルータリズムに強く惹かれるという。 「ブルータリズムが建てられた時代は、建築が一番とんがっていて先進的なことをしていた時期。また、構造や機能が形に表れているというのは、建築家の夢や理想が色濃く反映されているということ。そこに魅力を感じます」

    “未来を夢見た建築” ブルータリズムを巡る。
    hozho
    hozho 2023/05/13
    “1950年代末〜70年代にかけて、日本の建築界を席巻したブルータリズム建築。ブルータリズムとは、機能や材料などをそのまま形に表したデザインの建築を指す。”
  • 坂倉準三 - Wikipedia

    坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日館の設計を手がけ、日のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる[1]。 経歴[編集] 1901年(明治34年) - 岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(現・羽島市)で酒蔵である千代菊の坂倉又吉の4男として生まれる。 1916年(大正5年) - 岐阜県立岐阜中学校に入学。 1920年(大正9年) - 第一高等学校文科入学。 1923年(大正12年) - 東京帝国大学文学部入学。 1927年(昭和2年) - 東京帝

    坂倉準三 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2022/11/27
    “坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。”
  • 黒部ダム、苦難経て60年 改めて見えた原発の有用性

    約7年の難工事を経て完成した黒部ダム。現在では観光地としても人気を集めている=富山県立山町(井上浩平撮影) 黒部ダムの黒部川第四発電所=くろよん(富山県)は来年で完成から60年となる。戦後、関西の電力不足を解消するため多くの犠牲者を出しながら成し遂げられた大工事。今夏の電力需給逼迫(ひっぱく)が懸念される中、現在も水力発電を続ける現地を取材すると、電力確保に情熱を燃やした先人の苦労とともに、既存施設の効率的な利用の観点からも原子力発電の有用性がみえてきた。 黒部ダムは標高1470メートルの中部山岳国立公園内にあり、一般の乗用車で直接訪れることはできない。日海側のふもとにあたる宇奈月駅(同県黒部市)から、トロッコ電車で知られる黒部峡谷鉄道に乗り込みダムを目指した。 トロッコは宇奈月-欅平(けやきだいら)間の山間部約20キロを1時間半かけて結ぶ。「もともとは観光用でなく、黒部川流域の発電所を

    黒部ダム、苦難経て60年 改めて見えた原発の有用性
    hozho
    hozho 2022/07/23
    “黒部ダムには建設工事で殉職した171人を悼む慰霊碑がある=富山県立山町”
  • 通天閣 - Wikipedia

    通天閣観光株式会社は第二次世界大戦後に通天閣を再建する地元の声がもととなり、1954年(昭和29年)9月4日に新世界町連合会役員らを中心に創立事務所が設置され、1955年(昭和30年)7月6日に設立された[4]。 名称 - 通天閣観光株式会社 所在地 - 大阪市浪速区恵美須東1-18-6[4] 資金 - 1億500万円[4] 初代通天閣[編集] 初代通天閣と戦前の新世界 1903年の第5回内国勧業博覧会誘致において、東京との激しい招致合戦に勝利、パリに飛びパリ万国博の仕組みを詳細に調査して成功に導いた、当時の大阪商業会議所会頭・土居通夫が理想的娯楽園を作るために[13]、この博覧会の跡地に新世界ルナパークを開設してパリのエッフェル塔を真似た「通天閣」と呼ばれる塔の建設を構想する。他者の構想をインパクトがないとして次々と没にした土居は周囲の猛反対を押し切って、パリの凱旋門にエッフェル塔の上

    通天閣 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2022/07/03
    “当初は、松下電器産業に広告の掲出を打診したが、松下幸之助の判断で掲出を見送った。日立のネオンが「地元の名物」として広く認知された後年に、広告の掲出を見送ったことを悔いたという。”
  • 創業58年 時が止まったようなバス会社のドライブインに起きた奇跡 “エモさ”で人気沸騰 | 乗りものニュース

    開業から五十数年、長く低迷してきた香川のドライブイン「大川オアシス」が、いま突然の人気に沸いています。海を一望できる眺望だけでなく、夢の世界のようにキラキラした純喫茶メニューが、SNS映え重視の現代で“見つかった“のです。 バス会社のドライブインがSNSで“見つかる” 戦後日が高度成長を遂げる中、モータリゼーションと呼ばれる自家用車の普及とともに、幹線道路沿いには広大な駐車場とゆったりした客席を備えた「ドライブイン」が昭和30~40年代に数多く建設されました。その後、コンビニエンスストアの増加や道の駅の整備、あるいは道路整備に伴う旧道化などの社会変化もあって激減、今ではその存在も貴重なものとなりつつあります。 その中で2022年現在、香川県さぬき市にあるドライブイン「大川オアシス」に多くの人々が訪れています。コロナ禍前と比較しても150~200%の売り上げがあるとか。 拡大画像 海を望む

    創業58年 時が止まったようなバス会社のドライブインに起きた奇跡 “エモさ”で人気沸騰 | 乗りものニュース
    hozho
    hozho 2022/06/04
    “国道11号沿いの高台にあるこのドライブインは、座席から一望できる瀬戸内海の景色がウリ。それだけでなく、アメリカ・シカゴの「ダイナー」を参考にしたというレトロかつモダンな建物も魅力です。”
  • 八ツ場ダムで2年遅れの完成記念式典 計画から68年で運用開始

    国土交通省は28日、八ツ場ダム(群馬県長野原町)建設完成を記念した式典を開いた。地元の反対運動や民主党政権による中止宣言などを経て、計画から68年がたった令和2年4月に運用を開始。新型コロナウイルスの影響で式典が開けず2年遅れの開催となった。 国会議員や事業関係者など約300人が参列。斉藤鉄夫国交相は「貴重な土地を提供くださった地域の皆さまに心から感謝する」とあいさつした。 洪水調節、利水、発電に対応する多目的ダムで、昭和22年のカスリーン台風をきっかけに国が27年、建設調査に着手、計画が動き出した。住民は激しく反対したが、湖畔の代替地に移転する案を受け入れ、平成6年に周辺工事が始まった。12年度の完成予定が延び、総事業費は当初の2110億円から5320億円に膨らんだ。

    八ツ場ダムで2年遅れの完成記念式典 計画から68年で運用開始
    hozho
    hozho 2022/05/28
    “地元の反対運動や民主党政権による中止宣言などを経て、計画から68年がたった令和2年4月に運用を開始。新型コロナウイルスの影響で式典が開けず2年遅れの開催となった。”
  • 東武浅草駅、まだ知られていない「駅ビル」の秘密

    東武鉄道の浅草駅は、日光・鬼怒川エリアへの観光に欠かせない特急「スペーシア」や、栃木・群馬方面へのビジネス利用が多い「りょうもう」が発着する東京都心の玄関口だ。堂々とした風格の駅ビル2階のホームから出発した列車は、右へ大きくカーブしてすぐに隅田川橋梁を渡る。少し窮屈で暗い印象の駅から、打って変わって開放感ある水辺の車窓はいかにも旅の始まりにふさわしい。 2020年にはその隅田川橋梁を歩いて渡ることができる「すみだリバーウォーク」や、川の向こうの高架下を活用した商業施設「東京ミズマチ」がオープンした。浅草と東京スカイツリーを結んでエリアの回遊性の向上が図られている。 駅ビルの開業は90年前 東武の浅草駅は1931年5月25日の開業から90周年を迎えた。アメリカ・ニューヨークのマンハッタンにそびえる、「帝国州」の名を冠したエンパイアステートビルとは同い年だ。東京随一の繁華街だった浅草では、その

    東武浅草駅、まだ知られていない「駅ビル」の秘密
    hozho
    hozho 2021/12/11
    “東武の浅草駅は1931年5月25日の開業から90周年を迎えた。アメリカ・マンハッタンにそびえるエンパイアステートビルとは同い年だ。東京随一の繁華街だった浅草では、その4年前の12月30日に上野との間に地下鉄が開業。”
  • 白井晟一 - Wikipedia

    この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(芹沢銈介の3文字目、白井昱磨の3文字目)が含まれています(詳細)。 試作小住宅(現・顧空庵) 1953年。東京都世田谷区から秋田県湯沢市に移築 湯沢酒造会館(秋田県湯沢市) 旧雄勝町役場(秋田県湯沢市・現存せず) 白井 晟一(しらい せいいち[1]、1905年(明治38年)2月5日[2] - 1983年(昭和58年)11月22日[3])は、日の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる[4]。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた[1]。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家[1]」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある[4]。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる[4]。 生

    白井晟一 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2021/11/22
    “白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。”
  • 孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート

    November 22, 2021 | Architecture, Design | casabrutus.com | photo_Shin-ichi Yokoyama   text_Naoko Aono   editor_Keiko Kusano 哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。 〈懐霄館(親和銀行電算事務センター)〉(1973-75年)。第1期、第2期に続いて白井晟一が手がけた長崎県の〈親和銀行店〉第3期計画として作られたもの。巨大なコンピュータを収めるための施設だが、水盤のある吹き抜けや噴水のある10階サロンなど、人間の思索の場をも内包するかのような建物となった。撮影:柿沼守利。

    孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート
    hozho
    hozho 2021/11/22
    “哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日本建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日本建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。”
  • 「中銀カプセルタワービル」2022年に取り壊しへ。カプセルユニット保存へ向けて挑戦はじまる

    2021年夏。世界の建築ファンが注目する建築が、いま取り壊しへのカウントダウンを刻みつつあるという。東京都・銀座8丁目に建つ、建築家・黒川紀章の代表作「中銀カプセルタワービル」(1972年)だ。丸窓を有するキューブ状のユニット140個が塔状に張り付くユニークな建築は、世界ではじめてのカプセル型の集合住宅と言われている。その住戸であるカプセルユニットの保存を、クラウドファンディングの資金援助によって行おうとしているグループの代表いしまるあきこさんに話を聞いた。 目標150万円を大きく上回る400万円の支援金を獲得 「2カ月間のクラウドファンディングの期間(5月30日~7月28日)に、延べ300人を超える方々から、当初目標とした150万円を超えて、約400万円の支援をいただきました」と「中銀カプセルタワービルA606プロジェクト」代表のいしまるさんはその支援・共感の手応えを話してくれた。

    「中銀カプセルタワービル」2022年に取り壊しへ。カプセルユニット保存へ向けて挑戦はじまる
    hozho
    hozho 2021/08/21
    “住戸であるカプセルユニットの保存を、クラウドファンディングの資金援助によって行おうとしているグループの代表いしまるあきこさんに話を聞いた。”
  • 神奈川県立図書館と音楽堂 県重要文化財に 前川國男の最初期代表作(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

    hozho
    hozho 2021/08/04
    “県立図書館と隣接する県立音楽堂(横浜市西区)について、県の重要文化財への指定を決めた。”
  • SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

    サービス終了のお知らせ SankeiBizは、2022年12月26日をもちましてサービスを終了させていただきました。長らくのご愛読、誠にありがとうございました。 産経デジタルがお送りする経済ニュースは「iza! 経済ニュース」でお楽しみください。 このページは5秒後に「iza!経済ニュース」(https://www.iza.ne.jp/economy/)に転送されます。 ページが切り替わらない場合は以下のボタンから「iza! 経済ニュース」へ移動をお願いします。 iza! 経済ニュースへ

    SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト
    hozho
    hozho 2021/04/09
    “東京・銀座の「中銀カプセルタワービル」で知られる黒川紀章氏(1934-07)設計の「カプセル建築」の一つで、50年間非公開だった「カプセルハウスK」(長野県御代田町)が5月に一般公開される。”
  • 復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし

    復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし
    hozho
    hozho 2021/02/14
    “関東大震災後に生まれた「モダン東京」の街と建物から、都市の熱気、人々の思いが見えてくる−。変わり続ける東京の“原点”を知る、1920〜30年代の復興建築130以上を収録する。”
  • 【書評】『復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし』栢木まどか監修

    首都が壊滅し10万人超の死者を出した関東大震災(大正12年)を教訓に、帝都復興院総裁の後藤新平のもと、まとめられた「帝都復興計画」。現代の東京の骨格をつくったこの計画に従い、「復興建築」が次々に建てられた。耐火・耐震性の高い、鉄筋コンクリート造の建物だ。 「日橋高島屋S.C.館」や神田錦町の「学士会館」、神保町の古書店「一誠堂書店」など現存するものもあるが、多くは再開発で失われていった。100年前の被災地に立った人々は何を考え、建築と街をつくってきたのか。近代東京の原点を振り返る。(トゥーヴァージンズ・1900円+税)

    【書評】『復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし』栢木まどか監修
    hozho
    hozho 2021/02/14
    “現存するものもあるが、多くは再開発で失われていった。100年前の被災地に立った人々は何を考え、建築と街をつくってきたのか。近代東京の原点を振り返る。”
  • 大王埼灯台 - Wikipedia

    大王埼灯台(だいおうさきとうだい)は、三重県志摩市大王町波切54-1にある灯台。志摩半島の大王崎の突端に建つ中型灯台である。「日の灯台50選」に選定されている。リアス式海岸が見られる周辺は伊勢志摩国立公園に指定されている。 歴史[編集] 大王崎周辺の海域は、昔から船頭らに「伊勢の神崎、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」と唄われていた海の難所だった。1913年(大正2年)には、サンマ漁船が遭難して死者51名を出し、1918年(大正7年)には、3千トンの巡洋艦「音羽」が大王岩に激突座礁した。これらのことから灯台の建設が求められていた。 1927年(昭和2年)10月5日 - 初点灯。 1954年(昭和29年) - 無線方位信号所が併設される。 1978年(昭和53年)12月 - 改修工事が行われる。 2004年(平成16年)4月1日 - 無人化される。 2005年(平成17年)11月 - 第4等

    大王埼灯台 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2021/02/02
    “大王埼灯台(だいおうさきとうだい)は、三重県志摩半島の大王崎の突端に建つ中型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれている。”
  • 大王埼灯台(大王崎灯台)-伊勢志摩国立公園 大王崎・白亜の灯台

    hozho
    hozho 2021/02/02
    “2004(平成16)年4月には、最新レーダーが設置されたことにより、東海地方で最後まで残っていた「燈台守」の姿が消えましたが、灯台は今も参観灯台としての観光スポットと、海の安全を守る道標として活躍。”
  • 大王埼灯台に上る - まちかど逍遥

    2020年1月の伊勢・鳥羽の続き。 青い海の絶景を眺めながら、大王埼灯台まで上ってきた。 うぉ~~っ、真っ青な空に映える白亜の灯台。高さ22.5mのコンクリート造。 志摩半島でも外海に面した大王崎は海の難所として知られ、早くから灯台の設置が望まれていたが 実際に建設されたのは1927(昭和2)年。 基部には一部八角形(?)の2階建ての建物が付属していて、2階の海側にはバルコニーが回っている。 直線と円弧で構成されたシンプルな形がモダンなイメージだが、バルコニーを支える円柱の列がちょっと 神殿っぽい雰囲気を醸し出す。 しかし入口だけ毛色が違うな・・・こんな古典的な雰囲気。 大王埼灯台は1978(昭和53)に大改修を行ったということなので、元々の姿が一部残っているのかな。 1階は資料館になっていて、大王埼灯台を紹介した資料などが展示されている。 2階へ上がる階段の踊り場には、ステンドグラスが。

    大王埼灯台に上る - まちかど逍遥
    hozho
    hozho 2021/02/02