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いま大学院の授業で、関根康正さんの『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社、2006年)を講読しています。この本のなかで、関根さんは、インドの今日の宗教紛争を招いているヒンドゥー・ナショナリズムとイスラーム主義双方の「コミュナリズム(宗教対立主義)」の台頭に対して、セキュラリズム(世俗主義)を擁護しようという論調があるけれども、コミュナリズム対セキュラリズムの構図では、宗教紛争を解決することも読み解くことはできないと言っています。 すなわち、特定宗教を普遍的価値として主張するコミュナリズムと、すべての宗教の価値評価を保留し私的領域に押し込めるセキュラリズムの対立は、見せかけのものであり、両者は、「宗教を対象化して眺められるような近代思考としての世俗化した社会認識を共有している」(41頁)と言います。 つまり、セキュラリズム(世俗主義)もコミュナリズム(宗教対立主義)も、宗教を「客体化」してい
わたしは、いつも、何ものでもなく、ただ「わたし」でありたいと願っているのですが、でも、わたしが何ものでもなく「わたし」だと思っているものは、本当に何ものでもない「わたし」であるのか、いつもわからなくなります。 わたしは、今、朝鮮舞踊とチャンゴを習っています。舞踊のほうは、今年で四年目で、チャンゴの方は、習い始めてまだ一年しか経っていません。どちらも難しいですが、でも、習い始めてよかったと思っています。踊りを習い始めたきっかけは、オモニたちのように「オッケチュム」を踊れるようになりたいな、そして、わたしも、オモニたちと一緒にほがらかな顔で楽しく「オッケチュム」を踊りたいな、そう思ったことでした。「オッケチュム」は、オッケ(肩)をつかって自由に踊る踊りで、もともとは、どこかに習いに行くというような、形式ばったものではないように思います。むしろ、そういう形式性とはもっともほど遠い、ひとりひとり
⇒negative_dialektik はてな村出張所 ⇒negative_dialektik はてな村出張所 最近、千数百年の長きにわたって、日本史の記述の中で、悪者扱い逆臣扱いされてきた、蘇我氏の名誉回復につながる様な研究が進んでいます。 進歩的な外交をしようとした蘇我入鹿らに反対する、中大兄皇子と中臣鎌足らが共謀して、クーデターによって入鹿らを殺害して、それを正当化するために、『日本書紀』の記述を改竄し、名前までも蝦夷のような印象の悪い名に変えて、蘇我氏は逆臣だった、という「正史」を残した、という学説が出てきています。 私はこれを大変興味深い学問的研究だと思いますが、これをしも、「おぞましい歴史修正主義」と人は呼ぶのでしょうか。 この事例からも想像できるように、「正史」というものは、強者・権力者が書き残すものです。しばしば自分の都合のいいように歪曲しながら。そこに書き記されている歪み
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