Nさんの半生を紹介した『元日本人傭兵が絶句…!インパール作戦を生き延びた日本人が祖国に帰れない「ヤバすぎる理由」』の続きである。 日の丸を掲げた行進隊 民家も人の姿もまったくない国境沿いの未舗装の田舎道。その日私は、フランス人の戦友ジョンと車で走っていた。 「おい、あれはお前の国の国旗じゃないか」 運転していたジョンに突然肩を叩かれた。
私がかつて戦ったミャンマーのカレン州(現カイン州)は、大戦中旧陸軍が展開した地域のひとつだ。特に終戦直前は、北部の山岳地帯にいた部隊の撤退路にもなったという。そこには今でも、はかなく散った日本兵の無念の想いが残されているようだ。 「おい、聞けって…ほんまやって」 とある早朝の事だ。サルウィン川とモエイ川の合流地点ほど近くにあった、カレン民族解放軍司令部マナプロウ(当時)。そこで、マラリアを発症して寝込んでいた日本人の戦友Aが、必死に我々に訴えていた。 「夢でも見たんだろ。うなされとったし…」 「ほんまに出たんやって!声までかけてきよったし…」 まだ熱は下がっていなかったが、Aの目は真剣そのものだった。 彼の話によるとこうだ。 深夜目を覚ますと、部屋の中に人の気配を感じたそうだ。その方向に目をやると、少し離れたところに、ボロボロの軍服を着た日本兵が柱にもたれかかるように座って、じっとAを見つ
(CNN) ミャンマー軍に空爆された同国北西部ザガイン管区カンバルの村。一夜明けた12日、現場では焼け焦げた遺体や遺体の断片を、親族が拾い集めていた。 トンネルの中に隠れていたという目撃者は、空爆を受けた現場の惨状を目の当たりにした。死亡した子ども、泣き叫ぶ女性、地面に積み上げられた遺体の山。ミャンマー軍事政権による11日の空爆では、女性や子供を含む少なくとも133人が死亡したと、ミャンマー民主派の「統一政府」(NUG)で人権担当相を務めるアウンミョーミン氏はCNNに語った。 当時現場にいた活動家団体によると、今回の空爆で子ども少なくとも20人が死亡し、50人が負傷したという。 目撃者によれば、村では11日朝、地域行政事務所の開所式が行われて300人ほどが集まっていたという。式典ではミャンマーの新年の始まりに合わせて飲食が振る舞われ、近隣の村からも家族連れが訪れていた。 同地は軍事政権の支
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