文芸批評と文学研究の雑誌『文学+』 運営「凡庸の会」、3号刊行中。 WEB版は中沢エクセルシオール忠之が運営。 連絡はbonyou.org@gmail.com 雑誌の購入はTwitterのプロフィール欄から是非! https://twitter.com/bungakuplus
完全にノリで書いたのに、気づいたら速水さんの連載をはじめ、微妙な広がりを見せている「ギャル演歌の世界」。自分としては、批評的な距離感もなく、揶揄する意図もなく、ただ目の前にある風景――音楽があって、それが好きだというコがいて――について「わかるわかる!」の気持ちで書いたので、変に展開するのもどうかなと思ったのだけど、「オタク」の例を挙げるまでもなく、言葉の一人歩きは怖いし、最近某所でインタビューされたこともあったので、そこでの話を元にしつつ、簡単に。 まずギャル演歌の定義について。前のエントリでは「内向的でうじうじしていて、依存心が強く、本当は男に引っ張ってほしいけど、でもそれが叶わないからがんばって一人で生きるんだってパターン」って書いたもんで、これが定義みたくなっているのだけど、さすがにざっくりしすぎなので、以下のような歌詞が特徴的な女性アーティストの楽曲、ということにしてみたい。 (
アニメにおける基本的な技法である「モンタージュ」は、しばしば遠く離れた2人をすぐ近くに存在するかのように描きます。『ガンダム』では1つの画面を2つに分割する技法が頻繁に用いられますが、これもモンタージュと同様に、離れた場所にいる2人が同じ場所で向かい合っているように見せかける技法であると言うことができるでしょう。 一方で、『ef - the latter tale.』のデモに見られるように、他者との対比や画面構成によって「近いようで遠い」距離感を表すことも、アニメは得意としています。 では、全然近くない、遠く離れた2人を描くにはどうすれば良いのでしょうか? 背景を変える、言葉を変える、服装を変える……理屈の上ではわかるのですが、どれも心情に訴えかける効果的な表現とは言いづらいような気がします。つまり、アニメというメディアは「近さ」と「微妙な遠さ」を描くことを得意としながらも、心理的あるいは
アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinohaの絶対ブログ領域 昨日もお知らせしましたが、ぶっちゃけ誰も読んでないみたいなので、加筆部分(の一部)だけ転載。 作家のフランツ・カフカは、恋人に向けて書いた膨大な量の手紙を残していますが、その中には「手紙について書かれた手紙」も存在しており、コミュニケーションに関する彼の鋭い洞察がうかがえます。例えばこういう内容。 「われわれはあまり一緒にいませんでした、それは本当ですが、しかしたとえわれわれが一緒にいたとしても、ぼくはあなたに(ただし実行不可能なことですが)ぼくを手紙から判断するよう、直接の経験からそうしないように頼んだでしょう。手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」 ― 1915年3月25日付 ― これをカフカの対人恐怖症の表れだと考えても、必ずしも間違いとは言えません。ただ、ここでは最後の「手紙にひそむ可能性は、
7月頃、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 」に関する原稿を書いたのですが、諸事情につき刊行されない運びとなったとのことなので、せっかくなのでウェブサイト上にアップしたいと思います。約8,000字です。 ■ 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下、『新エヴァ』と略す)の総監督である庵野秀明は、いまから約三年前にあたる二〇〇六年の九月に、同作品を制作するにあたって「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」と題された所信表明を公開している(注1)。そこでは次のように書かれていた。なぜいまエヴァの再映画化を手がけるのか。それは「疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。蔓延する閉塞感を打破したいという願い」を実現するためである。もちろん、いまさら十年以上も前の作品を映画化するのか、という思いはある。事実、「エヴァはもう古い、とも感じ」る。しかし、庵野はこうも断言している。「この
とりあえず、ベースとして、コレ。>「いじめ/ファシズム/引きつった笑い - 過ぎ去ろうとしない過去」 問題は「イジメであったかどうか」ではない 人の内面は、その人しかわからない。てゆーか、その人にはわかっているのなら、まだ問題としてはマシなんだよな。その人のわかっているつもりの内面が、その人の本当の内面を隠蔽するために捏造されたものだったりもするので、その人のいうことを真に受けておけばいい、というわけでもない(真に受けるしかない、ということはあるけれど)。いずれにせよ、内面はわからない。 だから、外形に頼るしかないところもあるわけで、いじめとなりうる外形的な状況が発生していたら、「本人がどう思っていようと」それはいじめだと、まずはいってしまう、というスタンスも出てくるだろう。これはこれでわかるけれども、まぁ、乱暴ではあるわな。難しい。 では、どう考えるか。つまりは、その状況からその人が抜け
CanCamの「ひとり勝ち」状態について、これまでメディア関係者から何度か訊かれたことがある。 「どうしてなんでしょうね」 そんなこと私に訊かれても。 しかし、ありがたいことに本学の学生諸君には多くのCanCam読者がおり、彼女たちは当該雑誌と競合誌『JJ』や『ViVi』との記号論的差異について、世界でいちばん詳しい。 その中のひとりであるM村くんが、CanCam系ファッションの究極の目的であるところの「めちゃモテ」とはどういう状態を指すのか、というたいへん大胆にしてラディカルな問題提起をゼミでしてくれた。 こういうおいしい「現場ネタ」を寝ころんだまま拾えるのが女子大教師の特権である。 同僚の教師諸君の多くは教室で「学生に知識を教える」ということをされているが、私はできるだけ「学生から知識を教わる」ようにしている。 お給料をいただいてそれでは「やらずぶったくり」というか「盗人に追い銭」では
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はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
モノサブカルチャーとはなにか Cクラスにおける(コミュニケーション能力の)低スペック化とはなんでしょうか。 国際童貞文化研究所の調査によると、低スペック化を引き起こす主な要因には「ぬるま湯状態」と「モノサブカルチャー」が報告されています。 ぬるま湯状態とは、Cクラスの周り全てがCクラスであり、しかも、大学時代に代表されるようにABクラスからの圧力も比較的低い状況を指します。Cクラスにとっては全く平和ではあるんですが、「ぬるま湯」の名の通り、ぬるま湯コミュニティから出たときに困難が待っています。つまりコミュニケーション能力(と総称されるもの)の低下を引き起こします。 もう一つ、Cクラスの低スペック化を引き起こす要因として、「モノサブカルチャー」が挙げられます。モノサブカルチャーとは、Cクラスがサブカルチャーや中二病といったものにアイデンティティを仮託した優越感ゲームをやることによってしかスク
http://toybox.g.hatena.ne.jp/keyword/2006%2d10%2d08 Web2.0研究会@はてなより転載 Web2.0研究会第6回「学校Ⅴ」 [日時] 10月8日 17:00〜 [場所] 渋谷某所 [ゲスト] watcher6_6さん admire-don師 [内容] 名匠・山田洋次監督のライフワーク「学校」シリーズ。 夜間学校・養護学校などを舞台として、不登校問題にも果敢に挑戦していった「学校」シリーズが遂にCクラス問題に切り込みます。 学校行事へのルサンチマン、疎外された「青春」、対立するブス山さん・教師、そしてCクラス内部での差異化ゲーム… おもしろうて、やがて悲しきCクラス、克目して待て! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29 収録現場に立ち
http://www.helloproject.com/newslist/kago_0703261829.html ・第1部 「事務所の管理が甘かった」という意見もあるけど、そんなの内情がわからない以上、知りようがない。 「加護がファンを裏切った」という意見もあるが、それだってあらゆるアイドルが裏で何をやっているかわからない以上、加護ちゃんだけを断罪するわけにはいかないだろう。 自分がこの件について心配なのは、 「あー、やっぱり『アイドル』っていうイメージはダメなんだね、世の中に『いらない』ものなんだね」と世間が思うということだ。 どういうことかというと、 大塚英志だったかササキバラ・ゴウだったか忘れたが、かつてのアイドル・岡田有希子の自殺について、 「生身の女の子に『アイドル』というイメージを押しつけすぎたからではないか」と、「アイドルというイメージを押しつける人たち」を批判していた記憶
大塚英志『サブカルチャー文学論』の中に「庄司薫はデレク・ハートフィールドなのか」という章がある。*1 それを読んで私は、庄司薫氏が連合赤軍事件について1つだけエッセイを書いていること、そして実際に連合赤軍のメンバーのうち2人が庄司氏の「日比谷高校の後輩」だったという事実を知り、興味をもった。私は庄司薫の小説をまだ読んだことはなく、庄司氏が福田章二の名(本名)で書いた『喪失』という作品集も読んでいない。ただ、福田章二氏が20歳前後の大学生のときに『喪失』を書いた後、十年間「沈黙」して、十年後に突然のように庄司薫名義で『赤頭巾ちゃん…』を発表したというエピソードは好奇心をそそるものがあった。とりあえず『狼なんかこわくない』(中公文庫)というエッセイ集を購入してみたのだが、この本には2006年改版の際に御厨貴氏の解説が新たに付け加えられている。御厨氏はその中で、「『狼』は「政治学」のテキストとし
# しゅふ 『というか、そういう子育ての現場にいなさそうな人のエントリっぽいので、論理的に説明されてても戯言にしか聞こえないなあ。自己責任が招いた事故だから子供殺されても仕方ないってことなんだろうか?よくわかんない。』 (2007/02/16 05:00) 「みんなと同じ」でないと「異常」であるという日本ルール - こころ世代のテンノーゲーム 短絡的な罵倒や定型区的な書き込みはともかく、これは、これこそは最も恐ろしいコメントである。 それは「現場にいない人間の思考や想像力はすべて無効である」という、一見もっともらしいがその実最も反社会的な考えであるにもかかわらず、「実感として正論である」と受け入れられる考え方である。 これを真実だとするなら、今話題の経済学論争など、見事にすべてがたわ言・戯れ事だということになるだろう。 ことはそれに留まらない、そもそも「現場に携わっていることだけが発言を保
先日、図書館で柴田勝二『漱石のなかの〈帝国〉 「国民作家」と近代日本』(2006年)という本を見つけ、借りて読み始めたところ、冒頭に漱石の「個人主義と国家主義」の問題について書かれているくだりがあった。そこでは、漱石を『文学論』の構想・執筆へと向かわせた「自己本位」の姿勢とはどういうものであったかということが、「私の個人主義」(1914年)などの講演を参照しつつ論じられている。 もともと漱石が任じようとする「個人主義」の起点をなすものは、漢文学への親炙のなかに育ちながら、青年期にそれらとは距離のある英文学を研究分野に選ぶことで、文学の包括的な像を見失った際に、価値判断の基準として浮上してきた自己の内在的な感覚としての「自己本位」である。 この一節に何か心揺さぶられるものを感じて、少し考え込んでしまった。たとえば私がフリーターになったのは、学校教育や消費社会への親炙のなかに育ちながら、青年期
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うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
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