愛媛県大洲市長浜の冬の風物詩「肱川(ひじかわ)あらし」が6日、今季初めて観測された。 昨年より2日遅く、市などが認定制度を設けた1998年以降で最も遅い初観測となった。 肱川あらしは、上流の大洲盆地の冷気が日の出頃に霧を伴って肱川を下り、川面から出る霧と合わさって流れ出て行く局地風。平年は10月中旬から翌年の3月頃まで見られる。 長浜のこの日の最低気温は7.3度(平年10.9度)まで下がり、早朝に霧を伴った風が強く吹き始めた。霧は河口に架かる赤い開閉橋「長浜大橋」をうっすらと包み、伊予灘に向けて扇状に広がった。 毎朝、橋を通って登校しているという市立長浜中2年生(13)は「寒さが本番になると橋の上は霧で真っ白になる。きれいな光景を、大勢の人が見に来てくれるのはうれしい」と話した。
野村ダム(のむらダム)は、愛媛県西予市野村町、肱川水系肱川に建設されたダム。高さ60メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・灌漑・上水道を目的とする、国土交通省直轄の多目的ダムである。ダム湖(人造湖)の名は朝霧湖(あさぎりこ)という(ダム湖百選)[2]。 歴史[編集] 市場にて(八幡浜市) 愛媛県南部、南予地方の海沿いには宇和島市や八幡浜市の町並みが広がっており[3]、「愛媛みかん」のブランドで知られるウンシュウミカンその他柑橘系の果物の栽培が盛んである[4]。しかし、山がちで水利に恵まれず、水不足による被害が頻発していた。特に1967年(昭和42年)の旱魃は、当地の農業に大きな打撃をもたらしている。そこで、愛媛県最大の河川である肱川の上流部に「野村ダム」を建設し、貯えた水を南予地方沿岸部へと分水する工事が進められた[3]。野村ダムの建設は1971年(昭和46年)度に着手され、198
乙狼三千八十二人衆🖥 @lollip_sweet2 香川では昔から雨が降らないため水不足に悩まされています。その為高知の早明浦ダムから水を引いてきたり、ため池が多かったりと様々な工夫をしています。 でもうどんをゆでる水は惜しみなく使うんですよ。 2017-07-30 14:25:51
補償[編集] 早明浦ダムは経済安定本部が示した当初の案では高さ72.0メートル、総貯水容量1億4,700万トンと現在の規模の半分であり、下流に建設される予定であった小歩危ダムの方が大規模であった。しかし小歩危ダム計画の度重なる縮小、そして中止によって現在の規模へと拡大した。また当初一緒に建設される予定であった上流の桃ヶ谷ダムは1950年の段階で計画が中止された。ダムが建設されると奈良県の池原ダム(北山川)に次ぐ西日本最大級の人造湖が誕生することになるが、これにより本山町、土佐町及び大川村の2町1村で385戸・387世帯が水没の対象となった。この水没世帯数は当時としては大規模な部類であり、1960年(昭和35年)に建設省がダム計画の構想を発表すると同時に猛烈な建設反対運動が巻き起こった。 特に大川村の場合は村役場を始めとする村内の主要公共施設を含め、主要集落の大部分が水没する。加えてダムが完
宇和島城(うわじまじょう)は、四国の伊予国宇和郡宇和島(現在の愛媛県宇和島市丸之内)にあった日本の城。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。城跡は国の史跡に指定されている(1937年〈昭和12年〉指定)。別名鶴島城。 概要[編集] 宇和島城天守(1928年) 代表紋章:宇和島笹 宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎の手によって築かれた近世城郭である。標高74メートル(80メートルとも)の丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心に囲むように二ノ丸と帯曲輪、その北に藤兵衛丸、西側中腹に代右衛門丸、藤兵衛丸の北側一段低い所に長門丸を配置し、東側の中腹に井戸丸、麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城となっており、各曲輪が山上部に散在している中世的な縄張りを色濃く残しながらも、山麓部には追手門や搦手門のように内枡形や喰違虎口といった近世城郭的な縄張りももつ。東側
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く