1: 斑(東日本):2012/08/17(金) 16:47:19.35 ID:Z+3z3VOh0 駄菓子、昭和歌謡、ファッションなど、昭和という時代の良さを懐かしむ「昭和レトロブーム」が数年来 続いている。 ダイドードリンコ <2590> は、2012年夏の新商品として、「復刻堂 メロンサイダー」を発売。 「カゴメトマトジュース復刻版デザイン3缶パック」を発売。 コカ・コーラシステムは、1958年に日本で発売開始して以来 50年以上愛され続けている炭酸飲料ブランド「ファンタ」から 「ファンタ アップル」を、2012年のファンタ「レトロシリーズ」ラインナップの第二弾として発売。 この「昭和レトロブーム」は、景気の閉塞感や昨年の震災などにより、先々に不安を感じている消費者の 中で、高度成長期の中で活気に満ち溢れ豊かさを増していった時代を懐かしむ想いが高まっているからであろう。
前に一回、京都中書島と橋本の赤線跡巡りをしたんやけど、 (ブログはここです。赤線の意味なんかもここに書いてるさかい、ご覧あれ) 赤線跡巡りはこれで終わったわけじゃーありませぬ。むしろこれからが赤線跡巡りの始まり、ってゆーてええかもしれません。 それまで成りを潜めてたんは、じっくり調査してたからなんですわ。 赤線に関してはいろんな本があって、俺は 赤線跡を歩く 消えた夢の街を訪ねて(ちくま文庫) を参照にさせてもろて、これだけでもある意味十分ゆーたら十分なんやけど、 (これは赤線抜きでも一読の価値ありですわ) ある方から、家の近くにある「信太新地」(現役バリバリのとこだす)の歴史も調べたらどない?と宿題を仰せつかい、 今まで色々調べてたんやけど、その副産物でいろんな資料が見つかりました。 (肝腎の「信太新地」については、資料が乏しすぎるさかい、まだ完成しとりません) 同じ赤線跡を調べてる人の
本書「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(参照)の表題の問いについて関心がある人なら、それは「おわりに」の数ページが扱っているだけなので、さっとそこだけ立ち読みすれば終わる。ただ、さっと読んでわかる回答は書かれていない。筆者の用意した回答としては「庶民の宗教だから」というのが筆頭に来るが、それが明瞭に支持された解説に拠らずややわかりづらい印象を受ける。しかし、そこは本書の欠点ではない。 むしろ本書全体を読めば、明瞭な答えに導かれる。つまり、浄土真宗は妻帯から家系による寺の相続が可能になったこと(本来寺はそういうものではない)と、妻帯に伴う縁組みで閨閥が形成できることだ。 浄土真宗を宗教としてみるとわかりづらいが、諸侯や商店の特異とも見ればよいとも言えるだろう。浄土真宗藩や浄土真宗店とでもいうようなものである。さらに江戸時代に幕府から特別に保護されたことの要因も大きい。 ただし、それらの
1948年東京生まれ。立教大学経済学部を卒業後に渡米、アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン(ロサンゼルス)で写真を学ぶ。1974年よりニューヨーク在住。「海景」「劇場」「建築」シリーズなどの代表作がメトロポリタン美術館をはじめとする世界有数の美術館に収蔵されている。彫刻、建築、造園、料理、書と多方面に活躍、とりわけ伝統芸能に対する造詣が深く、演出を手掛けた「杉本文楽 曾根崎心中 付り観音廻り」公演は国内外で高い評価を受けた。2008年、新素材研究所を設立。2017年10月、約20年の歳月をかけて建設された文化施設「小田原文化財団 江之浦測候所」をオープン。これまでにハッセルブラッド国際写真賞、高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)受賞、紫綬褒章受章、フランス芸術文化勲章オフィシエ叙勲、そして2017年、文化功労者に選出される。著書に『苔のむすまで』『現な像』『アートの起源』(新潮社)、『
ナチスの恐ろしいレニングラード包囲戦を振り返ろう。現在と当時の街の様子が一度に見てとれる写真たち(ギャラリーあり)2012.01.24 22:009,787 言葉を失います。 写真家セルゲイ・ラレンコフ(Sergey Larenkov)さんが自身の新しい作品を公開しました。彼は、一枚の写真上に同じ街の第二次世界大戦時と現在の様子をPhotoshopで加工したものを並べる、というユニークな作風で知られています。そんな彼の新作はナチスによる「レニングラード包囲戦」にフォーカスがあてられています。 ここでレニングラード包囲戦について少し説明しておきたいと思います。 レニングラード包囲戦は、ナチス軍が1941年9月8日から1944年1月18日までの872日もの間、レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲し、それによって150万人ものソ連軍とレニングラード市民が犠牲になったと言われている悲惨極
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年1月) シュヴィムワーゲンTyp 166の現存車輌 車体内装。手すりの手前側には小銃等を支えるブラケットが備わっている。奥の助手席には軽機関銃の弾倉や予備銃身ケースが写っている。 車体後部の跳ね上げ式のスクリュー。その下に、エンジンと繋がったシャフトが装備されている。使用の際にはスクリューを下げてシャフトと連結、駆動させる スクリューを下ろして水上走行へ移行しようとする様子。キューベルワーゲン用の幅の狭いタイヤを装着している 1942年、配備後間もない武装親衛隊(LSSAH師団)のシュヴィムワーゲン シュヴィム(シュビム) ワーゲン(独:Schwimmwagen)は、第二次世界大戦中にドイツ軍が使用した四輪駆動の水陸両用車
キューベルワーゲン Typ 82 レストアされた現存車両の内の一台 ドイツ海軍報道部隊で使用されるTyp 82[注釈 1] シチリア、1943年頃 キューベルワーゲン(独:Kübelwagen または Kübelsitzwagen)とは、第二次世界大戦中にドイツで生産された小型軍用車両である。フェルディナント・ポルシェらにより設計された。 構造的には先行してポルシェが設計していたフォルクスワーゲン・タイプ1の軍用車バージョンというべきものであり、不整地走破性を高めるため、軽量・低重心なタイプ1の特長を生かしながら、可能な限り最低地上高を高めるように設計された。 ドイツ語では Wagen は「ヴァーゲン」という発音に近いが、本項では日本での「フォルクスワーゲン」等の慣例に倣い「ワーゲン」と表記する。 概要[編集] 車体はオープントップ(和製英語:オープンカー)であり、ターポリン(耐水性のキャ
英軍に鹵獲されたゴリアテ ゴリアテ(Goliath)とは、第二次世界大戦でドイツ国防軍が使用した遠隔操作式の軽爆薬運搬車輌の通称。大きく分けて電気モータータイプ (Sd.Kfz.302) とガソリンエンジンタイプ (Sd.Kfz.303) の2種類が存在した。 最高で100 kgの高性能爆薬を内蔵し、有線で遠隔操作され無限軌道で走行・自爆する。連合軍ではTracked mine(意訳すると無限軌道式自走地雷)とも呼ばれていた。主な使用目的は、地雷原の啓開・敵固定陣地・軍用車両の破壊である。 歴史[編集] ゴリアテは、その原型が1939年にフランスの工業デザイナーであるアドルフ・ケグレスによって設計・試作されていたが、ドイツ軍の侵攻により川に沈められ隠匿された。しかしフランス占領後にこれを引き揚げ調査したドイツの兵器局は、その設計図を基にして最低50 kgの爆薬を搭載できる兵器の開発を、ブレ
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ケッテンクラート" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年1月) Kettenkrad Winter 1943/44 in Russia Kettenkrad with trailer Sd.Anh. 1, Russia 1943 ケッテンクラート(1943年製) ケッテンクラート(1944年製) リア 操縦席 ケッテンクラート(独: Kettenkrad)は第二次世界大戦期にドイツで開発された半装軌車である。 元々は第二次大戦前の1938年に、森林で使える民間向け小型トラクターとしてNSU社が開発を始めたKfz.620
機雷掃海(航路啓開)部隊 大東亜戦争中、日本の周辺海域には約66、000個の機雷が敷設された。その内訳は、日本海軍の 係維機雷が約55、000個、米軍の感応機雷が約11、000個である。 戦後になって、これらの機雷の掃海に従事し、主要な航路・港湾泊地を啓開、戦後の復興に大きく貢 献したのが機雷掃海(航路啓開)部隊である。 当時の機雷掃海艇 概史 戦争末期、米軍は対日反攻政策の一つとして感応機雷を敷設し、日本本土の海上封鎖により重工業の 弱体化を目的とする「飢餓作戦」を展開した。 主要な航路はことごとく塞がれ、敗戦後二ヶ月間で83隻の船舶が触雷した。当初、掃海作業の重点は、 大阪-下関間の航路確保を目的として瀬戸内海におかれ、掃海艇と現地徴用の漁船など112隻で「臨 時掃海部隊」が編成された。 その後、掃海作業は全国的に並行して進められたが、瀬戸内海では昭和23年に9隻、翌24年には6隻 の
戦前の「ヤクザ」を考える 藤野 裕子/早稲田大学文学学術院助教 相撲界や芸能界に顕著なように、近年、暴力団を社会から排除する動きが加速している。その一方で、そもそもなぜ暴力団が社会に存在してきたのか、という点が問われることはあまりない。その歴史的な経緯を戦前までたどってみると、現在の私たちが抱いている、“反社会的”な“アウトロー”集団というイメージとは大きくかけ離れた「ヤクザ」の姿が浮かびあがる。 実際、戦前の「ヤクザ」はすぐれて“社会的”で、“体制内化”された存在であった。社会面では、土木・荷役などの下層労働や芸能・相撲などの大衆娯楽を取り仕切り、民衆の生活に不可欠な役割を果たしていた。政治面でも、政党の外郭団体として組織され、政治体制のなかに組み込まれていた時期があった。 ここでは特に下層労働・政党との関係に焦点をあてて、戦前の「ヤクザ」の役割を概観してみたい。 下層労働に根ざす 戦前
人物・逸話[編集] 第1次伊藤内閣成立時の高官を描いた錦絵 日露戦争における二元帥六大将 (中央が大山巌) 人柄[編集] 大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん(児玉源太郎参謀長)、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、児玉が旅順に第3軍督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。 桂太郎は大山の参謀総長時代の話として、次のような話を述べている。児玉、川上操六、桂が大議論を繰り広げていると、いつも大山が仲裁役となった。三人はそれぞれ理屈を
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