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思考に関するbartleby0911のブックマーク (4)

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●この作品を理解するには、最低限、これこれの文脈は押さえておけ、みたいな言い方にはどうしても反発を感じてしまう。いや、それが善意の啓蒙(親切な教育)だということは分かるし、そういうことを言う人は大抵、頭が下がる位に勉強したり努力したりしてる人であることも多いし。だから、そのような物言いを頭から否定したり、意味がないと言ったりは出来ない。いや、きっと意味はすごくあるんだと思う。でも、やはりどうしても、そういう言い方では何かを「開く」あるいは「つくる」というところには、最終的にはつながらないんじゃないかと思ってしまう。 それぞれの人が一人一人、それぞれ異なる文脈の複合のなかを生きているのだから、少し位置がズレれば、相手の「ある文脈」は見えても「別の文脈」は見えなくなる。わたしからは相手の一部しか見えないし、相手からもわたしの一部しか見えない。だから、わたしとあなたとを同一平面上に配置することは

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    bartleby0911
    bartleby0911 2010/12/02
    それぞれの人が一人一人、それぞれ異なる文脈の複合のなかを生きているのだから、少し位置がズレれば、相手の「ある文脈」は見えても「別の文脈」は見えなくなる。わたしからは相手の一部しか見えないし、相手からも
  • nikkei-2.4

    紙の1月18日週の「人間発見」欄に5回にわたってインタビューが掲載された、元世界銀行副総裁の西水美恵子さんという人を私はまったく知らなかった。専門が英文学のも全然知らなかった。インタビューを読んで、二人で西水さんの人生に感動した。いくら畑違いとはいえ、こんなにすごい人を知らなかった自分達を恥じたが、まんざら私の無知ばかりが悪いわけでもなく、日という社会は、海外にいてなお日に直接的な利益をもたらしてくれる人でないと無視する傾向があるように思える。 しかし海外に行きっきりになって、日とまったく関係なくその土地や組織で成果をあげる人ほど、ある意味、日人を勇気づける人はいない。いや、日人を勇気づけるのでなく、規制の枠と闘っている人を勇気づけるのかもしれない。この二つはえらい違いだ。いずれにしろ、西水さんのような人の存在を知って凹む人はめったにいない。 その西水さんの記事の2回目、進路

    bartleby0911
    bartleby0911 2010/05/07
    論理的な積み上げだけではどうにも解決が得られないとき、人は風景から答えを与えられる。論理的な積み上げだけで得られる答えなど、普通サイズの人間の枠を一歩も出ない。  哲学者ニーチェに「永遠回帰」の思想が
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    ●昨日一日、ジョン・レノンの名前がどうしても思い出せなかった時、記憶喪失というのはきっとこんな感じなのだろうと感じられた。たんなるど忘れなのだが、当に文字通り「ジョン・○○○」という感じで、「○」の部分が真っ白というか真っ暗で、知らないはずがないことなのに、そこへと至る経路が閉ざされてしまっていて、それはまさに頭のなかに深い穴が空いてしまったようで、「それを知っていたはずだ」という記憶の方があやしく感じられてしまうほどだった。思い出せないというよりも、この世界にははじめから「○○○」の部分など存在しなかったかのようにさえ感じられてしまう。勿論、ジョン・レノンの存在そのものを忘れてしまったわけではないし、その顔は思い浮かべられるし、何枚かのジャケットも、曲そのものも思い浮かべることができる。そして、彼は「ジョン」と呼ばれている、ということも、すんなり思い出せる。しかし「ジョン」の先が真っ白

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    bartleby0911 2009/06/10
    自分に執着する(赤裸々な)自分語りは鬱陶しいだけだが、自分を語ることによって自分を超えてゆくような、自分自身をネタとして人に差し出すような(開放的な)自分語りは、自分だけでなく、まわりの人をも開放する。
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    ●昨日の日記を更新した後、テレビをつけてぼんやり観ながら事をしていた。関根麻理が出ていて、アイスランドを旅行した時の話をしていた。現地の美術館で、ドイツの人でアイスランドに移り住んで何十年というおばさんにたまたま出会って、親しくなり、その流れで家に招かれた、と。そして、そのおばさんとの別れ際に、「あなたの人生が素敵なものでありますように」と言われ、それを聞いた時、関根麻理は、「ああ、私の人生はきっと大丈夫なんだ」と思ったという。 そのおばさんにしてみれば、その言葉はほとんど自動的に口から出て来る決まり文句のようなものでしかないのかも知れない。しかし、旅行先でたまたま知り合った人に言われた(聞き慣れない)言葉を、そのまま字義通りに受け取って、自分の人生を「大丈夫」だと感じるという経験に、とても心を動かされた。それはまるで、磯崎憲一郎の小説のように感動的な話だと思う。そのおばさんにとっては何

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    bartleby0911 2009/05/11
    その言葉に込められてきたものの厚みがそこでふわっと溶けて、まるでその言葉それ自身から、あるいはその言葉を繰り返し口にしてきた無数の人たちから、そのような大きなものから、自分の人生が見守られているような
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