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communicationに関するbartleby0911のブックマーク (5)

  • Deportare Partners|デポルターレパートナーズ

    Creating the possibilities of humans and society, Like sports. CEO Dai Tamesue 人間と社会の可能性を拓く、 スポーツのように。 タイムというはっきりとした結果が出る競技を追求しながら、人間の限界はどこにあるのだろうかと考え続けてきました。伸び悩んだり、重圧に苦しんだりする中で、限界は自分自身の思い込みが作っているのではないかと、そう思うようになりました。 社会を見渡せばそんな出来事が溢れています。思い込みによって制約がかかり可能性が狭まっている。自分がスポーツと向き合ってきた方法が、人間と社会の可能性を拓く上で活かせるのではないかと思い、会社を始めました。 私は「スポーツとは身体と環境の間で遊ぶこと」だと定義しています。遊びには計画も、義務もありません。面白いから行われる自由な活動です。そんな「遊ぶ」という感覚が

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  • ネット時代の共生の作法 - 内田樹の研究室

    ある学会誌からインタビューの申し込みがありました。携帯の廃棄物としての重要性を論じるという切り口だったのですけれど、いつのまにあぜんぜん違う話になってしまいました・・・ 学会誌なので、一般読者の目に触れる機会がないと思いますので、ここに採録しておきます。 現在、人口比一人1.3台所持しているといわれる携帯電話。その一方で、出荷数2,610万台のうち、その70%の1,780万台が廃棄されています。これだけ消費されている携帯電話ですが、ケータイやネットによるいじめや犯罪など、現代の社会問題としてもクローズアップされてきています。この膨大な廃棄物となる携帯電話は、何のために利用され、わたしたちのくらしとどう折り合いをつけていくのか。人間の社会活動に造詣の深く日和らない、武道家であり思想家である内田樹氏に、ネット社会のありようやこれからの社会の行方を伺いました。みなさんとともに考えていきたいと思い

  • ネットに木霊する叫び - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

    どんな音楽が好きと他人に訊かれる経験はだれにでもあるだろう。ぼくはその場合に絶対に自分の好きな音楽を言わない。だいたい、なんでも聴く、とか、そのとき周りの友達とかが聴いている音楽を聴いているとか答える。まあ、嘘ではない。でも、周りの趣味とかに関係なく、いつも、ぼくが猛烈に惹かれてしまう、あるタイプの音楽もあるのだが、それについては滅多に口を開かない。 なぜかというと、大昔、好きだった子に馬鹿にされた経験があるからだ。どういう風にいわれたかというと、「汗くさい」「なんか貧乏くさい」というような形容詞のひとことで切り捨てられたのである。これはきつかった。 具体的に名前を出してしまうと、そのときはTUBEというバンドだった。同じように猛烈に惹かれてしまうバンドにはACIDMANなんかもある。単発の曲とかでいうとD-51のサヴァイバーとかいう曲はとても好きだった。JAM Projectとかもぼくの

    ネットに木霊する叫び - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
  • “使えない奴”を足切りする為の面接テクニックについて - シロクマの屑籠

    コンサルの面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された - ミームの死骸を待ちながら リンク先の記事はコンサルタントの採用面接の体験談らしいが、巧い質問する面接官だなーと舌を巻いた。もし自分が面接官になったら、こういう意味深な質問を繰り出したいものだ。 就職面接であれ、受験面接であれ、面接官は限られた時間のなかで、対象者が合格に値する人物なのかをスクリーニングしなければならない。“モノになりそうな奴”を合格させ、“使えそうにない奴”を足切りするという重大な作業にかかわらず、与えられる時間はたった数十分。しかも、面接官に少しでも良い印象を与えるべく、対象者はなにがしかの嘘や誇張を交えてくるという前提で面接しなければならない*1。 このため、面接官がそれなりの信頼度でチェックできる情報というのは、意外と限られているし、そういう情報は「対象者が言葉に出して喋った内容その

    “使えない奴”を足切りする為の面接テクニックについて - シロクマの屑籠
  • 言葉に規定されている - 空中キャンプ

    どんな場所にもたいてい「言い方のきつい人」や「つねに厳しい口調で話す人」がいて、彼らはなにもそんなに攻撃的な言葉を使わなくてもいいではないかというハードな口調でものをいう。むろん周囲もその性格を心得ていて、あの人は心からそうした態度を取っているのではなく、立場上の戒めとして、もしくはある種のパフォーマンスとして、あえてそうしているのだということを知っている。ではかかる前提がある以上、パフォーマンスとしての叱咤や罵倒は軽く聞き流せるものなのかというと、まったくそのようなことにならないのはとても奇妙である。 どれだけその言葉が意からではないと頭では理解していても、攻撃的な言葉はどうにも耐えがたく、気分は落ち込み、胃のあたりがぎゅっと縮こまるような独特の感覚がやってくる。どうしてこんなことが起こるのだろうとおもうが、理由はよくわからない。うまく推測はできないが、われわれの存在はどこまでも言葉

    bartleby0911
    bartleby0911 2011/02/25
    人間のルールもなんだかわけがわからないし、いっそのこと犬みたいに「しっぽを振ったら友好の意」みたいなことになればいいのにと切ない気持ちになるのであった。
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