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n_古谷利裕に関するbartleby0911のブックマーク (10)

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    ●『データの見えざる手』(矢野和男)というの、第一章だけ読んだのだけど、これは恐ろしいだ。こののイントロダクションには、「科学の進歩のきっかけの多くは、新たな計測データの取得から」というようなことが書かれているのだが、文を読むと、この言葉が恐怖の感情と共に迫ってくる。先を読むのが怖い。 ●人間には、例えば、同じ計算のステップを延々十万回も繰り返す、ということを(「実験」として)行うのはとても困難だ。さらに、もし同じステップを十万回繰り返したとしたらその結果どうなるのか、ということを想像することも難しい。人間が考える因果関係や論理的展開は、そういう形での思考に対して無力だ。しかしこの世界は、実はそのような、無数の単調な繰り返しのなかで少しずつ「このようなもの」になってきたのだとしたら……。 でも、コンピュータによるシミュレーションは、いとも簡単にそれをやってのけ、そして驚くべき結果を

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    ●『ユリ熊嵐』第一話。快調な滑り出しという感じ。とても楽しい。 「ピングドラム」では、まずなんといっても「せいぞーんせんりゃくー」で、がっつりと人の心を掴んだのだけど、「ユリ熊嵐」では、そのような一発掴みはなくて、そのかわりたくさんのギミックがいろいろ散らしてある感じ(「デリシャスメル」は、それだけでは「生存戦略」ほどのインパクトはないが――せいぜい「ファビュラスマックス」くらいの感じ――様々な合わせ技との関係で生きる感じ)。 ただ、主題的には「ピングドラム」や「ウテナ」に比べると単調になるかもしれないという危険を、ちょっと感じる(まあ、でもまだ一話目だから…)。「透明な嵐」というのは要するに集団のなかで発生する同調圧力的なイジメ的なものの力で、それに対し「好きをあきらめない」というのは、群れの空気に埋没しない個と個の関係を貫くということで、そこに「承認(超越的な裁き)」とか「熊」とかいう

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    ●『進撃の巨人』、一応最後まで観た。といっても、話は全然終わっていないし、区切りすらついていない感じ。 で、結局これって「ブラック企業万歳」という話なのか、と思ってしまった。というか、世界全体がブラック企業化してしまったとしたら、そこで生きる人は、それぞれのやり方でそれに必死に適応する(ブラックに染まる)しかない、という話だというべきか。世界全体が脅迫と脅迫で塗りつぶされ、無根拠に繰り返し回帰してくる圧倒的な(ほとんど恐怖症的な)恐怖と破壊によって尻を叩かれ、環境への過剰なまでの適応へと、追い込まれるように強要される。そこでは主体には常に莫大な負荷がかかり、その負荷が適応へのモーターのさらなる動力源となり、必要以上の適応への希求がほとんど自滅(自傷)への希求と区別がつかないほどにまで昂進する(「エヴァ」のシンジのように、悩んだり逡巡したりできる余裕さえない、そしてここには、「同志」はいても

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    bartleby0911
    bartleby0911 2014/01/06
    “「この世界は残酷だ、しかし美しい」という決めゼリフのようなセリフがあるけど、この作品世界は、確かに残酷だけど、ちっとも美しくはない。これを「美しい」と思ってしまうことこそがヤバいんだ、とぼくは思う。
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    ●明日は祖母の誕生日で、祖母は明日で百歳になる。日曜日である今日、祖母の子供や孫が集まってお祝いの会をした。祖母自身に、百歳になったということがどのくらい理解できているかはよく分からない。どういう人たちが集まっている会なのかを理解しているかどうかもよく分からない。きょとんとして座っている。写真をたくさん撮られる。祖母はこのような場ではいつも、「鞭声粛粛夜河を渡る…」と詩吟を披露する。それは今も正確に歌うことができる。

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    ●キャンバス(F15)に、モデリングペースト、水彩絵の具。 ●『もののけ姫』。改めて、これはすごいな、と思った。ただ、とんでもなくすごいことは確かなのだけど、いまひとつ面白くない。とはいえ、いまひとつ面白くないということをもって否定できるような、そんな程度のすごさの作品ではない、というくらいのすごさがある。これだけのことをやり切れる人はきっと他にはいないし、これだけのものに対して文句をつけられる人もいない。ただただ、圧倒される。でも、やはり、いまひとつ面白くないことは事実だ、ということを付け加えたくはなる。 (ここで、「いまひとつ面白くない」というのは、例えばクオリティが低いとか、あそこの演出がいまいちとか、そのようなことではなくて、あくまで、いつものあの「のってくる」感じが希薄だ、というような、主観的な印象の問題だし、それこそが重要だと思うのだ。) とんでもなく大きな風呂敷を広げて、その

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    ●科学の発展によって、人間は人間自身のことをあまりにもいろいろと分かり過ぎるようになっている。しかしその、「分かり過ぎてしまう」という事実に対してどのように対処すればいいのかということは、誰もあんまり分かっていない。一昨日いろんな人の話を聞いていて思った。 そしてさらに、人類としては様々なことが「分かっている」からと言って、個々の「わたし」、それぞれの「わたし」たちは、そのすべてを知ることができるほど頭もよくないし、それをすんなり受け入れられるほど心もひろくないし、そもそも生活に追われていて知ろうとする余裕もない(専門家だって自分の専門のことしか分からないだろうし、現在では、ゼネラリストであるためには病気になるくらい頭が良い必要があると思う)。 科学的な認識や工学的な技術は劇的に変化するが、常識はゆるやかにしか変化しない。そのことが人の心や社会が一定の安定性を確保するために役立っている。だ

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    bartleby0911 2012/12/19
    科学的な認識や技術的な現状と(一人一人の人にとっての、という意味まで含めた)「常識」とのギャップが、あまりに大きくなるのも危険だし、それを放置しておくときっとひどいことが起こる(そのギャップは今日、恐
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    ●ぼくにはどうしても、自分が音楽に対して距離がある、疎遠だ、という感じがある。中高生の時は人並みに聴いたけど、それは「音楽」そのものを聞いたというよりも、ある種の精神性の象徴のようなものとして、新鮮な空気のようなものとして、それを必要としていたという感じだと思う。『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』(オリヴァー・サックス)の「失音楽症」の部分を読んでいると、ぼくにとっての「音楽の聞こえ方」に近い感じの記述があった。事故にあった音楽家の話。 ≪それなのに頭を強打して、すべてが一変したのです。絶対音感は消えました。今でも音の高さを聞き分けることはできますが、その名前と音楽空間における位置を認識することができません。たしかに聞こえますが、ある意味で、聞こえすぎるのです。すべてを等しく吸収するので、当に苦痛を感じることがあるほどです。フィルタリングシステムなしにどうやって聴けばいいのでしょう?≫

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  • 歴史的にみると... - 偽日記@はてなブログ

    歴史的にみると、どんな王道をゆくようにみえる巨匠でも、その人物が実際に現役として作品をつくっていた時には、決して安定した文脈のなかで自らの作品の正統性を保証されて作品をつくっていたわけではなく、他にも大勢居る作家の一人として、事前に確定された価値に守られることなく、自身の探求への懐疑や迷いをもちつつ、よるべない行いとして制作していたはずなのだ。つまり彼等は常に特異点として存在していたのであって、王道として存在していたわけではない。それが歴史へと回収され、事後的に文脈が整理された後から振り返ると、それがあたかも王道であり、ある種の正しさや法(象徴的な秩序)という原理に忠実であったかのようにみえてしまう。例えば、ピエロ・デラ・フランチェスカやティツィアーノやセザンヌが今観ても素晴らしくリアルなのは、西洋美術の正統な王道だからではなく、それぞれが特異点だからなのだし、グリフィスやフォードやヒッ

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    bartleby0911
    bartleby0911 2010/12/27
    このような文化への敵意それ自体が、ある程度の文化的な資本(の蓄積)によって可能になることは否定しようもない。文化とはあからさまに権威主義によって成り立つものなのだが、人は権威主義(つまり他者への依存や転移
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    ●なんか、『日の夜と霧』(大島渚)を観たことは、自分で思っている以上にぼくにショックを与えているようだ(16日の日記参照のこと)。 ●世代を細分化する語りは常に退屈だと思う。世代を細分化する語りが言いたいのは、要するに「俺らの世代は特別だ」っていうどうでもいい自意識に過ぎない。「俺らの世代の前と後とでは世界が大きく変わったのだ」と思いたい、つまり「俺らは特別の存在だ」という。 勿論、世代の違いによる解消出来ない差異はある。しかし、それはどんな世代間にも常にあるものでしかない。また、世代間の社会的な場での利害の対立というものも、決してなくなることはない。しかし、「決してなくなることがない」ということは、常にあるということで、そんなの全然特別なことではない。ありふれている。たんに世代間の利害の対立(古い世代に対する新しい世代の利害闘争)という古くさくてありふれたものを、あかたも革新的、革命的

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    bartleby0911
    bartleby0911 2010/09/21
    世代論を語る者は、世界-社会を語るフリをして自分を語り、それによって世界-社会を観念的に我有化する、「私の気持ち」を世界に貼り付ける
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    ●物語というのは、ちょっと気を許すとすぐに恋愛の方へひっぱられてしまうと誰かが書いていたのを読んだ気がするのだが、それともう一つ、物語はちょっと気を許すとすぐに「対戦(対決)」の方へひっぱられてしまうと思う。恋愛も対戦もなしで物語を成立させるのは困難であろうし(しばしば、恋愛と対戦とは別のものではなかったりさえする)、逆に、簡単に恋愛や対戦に着地する物語はバカっぽい。そして、ここで物語とは、まさに「現実」を動かしている力のことでもある。だとすれば、決して安易には物語に「対戦」を持ち込まないということは、そのまま、そのような現実へ向けての働きかけでもあろう。 ●格闘技というもののもつ矛盾。格闘家が実際にやっていることは、ものすごい量の情報を、ものすごい速さで処理して状況判断(駆け引き)をし、それをもとに、ものすごい精度で制御された身体運動へと変換してゆくという、ものすごく複雑かつ高度な行為で

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    bartleby0911
    bartleby0911 2010/04/23
    自分の作品が、疲弊した知的な労働者のための肘掛け椅子のようなものであってほしいと言ったマティスを、ぼくはすごく尊敬している。
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