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n_ラカンに関するbartleby0911のブックマーク (6)

  • 寝言戯言 2

    人が木や草花に関心を通り越して過剰とも見える思い入れをするとはどういうことか。 四、五年前、うちの最寄り駅の私鉄の駅舎がロータリーも含めた大々的改装工事をしたとき、ロータリーのまわりに立派な大きなケヤキが七か八か、あるいは十ぐらいも生えていた。一人の初老の女性が駅員をロータリーに呼び出して、このケヤキを伐らずに残しておくように、抗議だか懇願だかしていた。そのケヤキは保存樹木として残しておくようにという、あまり大がかりではなかったと記憶するが、とにかく住民による運動もあり、結果、すべてではなかったが、五か六、ケヤキは残されることになったが、あのときの女性はその運動とは別に、彼女個人の意志としてやむにやまれぬ訴えとして、ケヤキを伐らないでくれと言っていたように見えた。 と二人で少し離れたところまで散歩したとき、車一台がかろうじて通れる程度の道の三分の一くらいを占めていた太い、これも

    bartleby0911
    bartleby0911 2010/05/07
    だいたい人が苦しむのは、人間存在の本質にかかわる話を日常次元や金銭次元の話で切り崩されるときだ。切り崩す側は人間存在の本質にかかわる思慮をすでにとっくに日常次元のことに明け渡しているから、自分が放棄し
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●何かと「戦って(闘って)いる」と思っている時点で既に負けているんじゃないだろうか。このような形で今ある(決して敵の消えることのない)世界のなかで、どのように、戦うことを強いる磁力とは無縁に、生きることの可能な隙間をみつけ、あるいはそれを積極的に作り出すことが出来るのか、ということが問題なのではないか。つまり、敵を倒そうとしたり否定したりするのではなく、敵と同じ世界(同じ構造)のなかで、敵とはまったく別の原理によって振る舞うこと(それを可能にすること)こそが、それだけが、(積極的な創造としての)闘いなのではないか。そのための原理や、技術や配慮や機転が必要なのだ。 それは、積極的な何かを組み立て、作り上げ、自身の存在や生を支えるためのもので、何かを攻撃したり否定したり斬ったりするための(外向きの)武器ではない。「戦うこと」をモチベーションとしてはいけないのだ。 敵と和解せよ、ということではな

    ■ - 偽日記@はてなブログ
    bartleby0911
    bartleby0911 2010/02/03
    何かと「戦って(闘って)いる」と思っている時点で既に負けているんじゃないだろうか。「戦うこと」をモチベーションとしてはいけないのだ。
  • Amazon.co.jp: 他者と死者―ラカンによるレヴィナス: 内田樹: 本

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  • Amazon.co.jp: 夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル: 佐々木中: 本

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  • 『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー

    『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー 「図書新聞」2009年1月31日号 「永遠の夜戦」の地平とは何か 聞き手・白石嘉治 松潤一郎 重厚長大な『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)という書物が出版された。不可思議で魅惑的な表題であり、内容・文体はそれ以上に 魅力的である。著者の佐々木中氏にインタビューした。聞き手は、白石嘉治氏と松潤一郎氏にお願いした。なお今回、以文社の前瀬宗祐氏に全面的にご協力い ただいた。記して感謝申し上げます。(収録日・12月10日、神田神保町にて。〔須藤巧・誌編集〕) 「現在」をめぐって 白石 このたび『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』(以文社)という六〇〇頁を超える大著が出版されました。この書物を無視して、おそらく 現代思想を語ることはできない。ここから静かなる鳴動がはじまるのだろうと思います。今日は私と松潤一郎さんから、

    bartleby0911
    bartleby0911 2009/02/24
    現在はこうなっているからこうしなければ乗り遅れるとか、こんな時代になってしまったから諦めてこうするしかないなどという抑圧的な言説は、惨めな恐怖と怯えと卑屈の産物でしかない。その一夜の一行を信じることが
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    bartleby0911 2009/02/24
    ファルスがたんなるペニスではなく、無のシニフィアンであるというのは、どういう意味なのか。私たちが、自分自身を同一化しようとするファルスとは、どのような存在者なのか。1961-62年に行われたジャック・ラカンの
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