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educationに関するbartleby0911のブックマーク (23)

  • 教育の奇跡 - 内田樹の研究室

    『みんなのねがい』(全障研出版部)という媒体に教育について寄稿した。 「いつもの話」ではあるが、教育についてビジネスマンのような言葉づかいがあまりにメディアに瀰漫してるので、「教育はビジネスの言葉づかいでは語れない」という原理的なことを確認するために書いた。 「教える」という営みの質についてもっとも洞察に富んだ言葉を残したのは、フランスの精神分析家ジャック・ラカンである。ラカンは(やがてフランス中の知識人がエコール・ノルマルの講堂を埋め尽くすことになる)その伝説的なセミナールの最初の時間にこう述べた。 「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(・・・) 無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知

    bartleby0911
    bartleby0911 2012/03/15
    教師であるためには一つだけ条件がある。一つだけで十分だと私は思う。 それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。 自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。生徒たちは教
  • 不便さと教育 - 内田樹の研究室

    丸善が出している『學鐙』という雑誌に教育論を寄稿した。 一般の方にはあまり手に取るチャンスのない媒体なので、ここに採録しておく。 不便さと教育 というタイトルを頂いて原稿を書くことになった。たぶん「教育と効率」の背馳について論じて欲しいというのが編集部の趣旨であろうと思うので、それについて書くことにする(違ったらごめんなさい)。 教育と効率は質的になじまない。というのは、効率というのは、「単位時間内の仕事量」を以て考量するものであるが、教育がそのアウトカムを計測するときの時間の幅は原理的に「その人が死ぬまで」というもので、「単位時間」を切り出すことができないからである。 もちろん、無理をすれば単位時間を切り出して(「1時間以内の」とか「一学期以内の」とか「卒業時までの」とか)教育のアウトカムを考量することもできないことではない。 けれども、そこではじき出された数値は、教育を受ける人にと

  • Simple man simple dream

    中学生による暴力事件が相ついでいる。首相が異例のコメントは発表したり、なんだか社会的な地殻変動が起こったようなあわてぶりである。私は以前に、近いうちにこどもたちが社会の最も暴力的で、最も弱い環になるだろうと書いたことがある。そのとき私が「子供は弱い環だ」という言葉で言おうとしていたのは、「私たちの社会の集合的な連帯」が「こども」を起点にして寸断され崩壊してゆくだろうという陰な予想であった。悪い予想はよく当たる。 今回の事件について、またうるさく「学校が悪い」のか「家庭が悪い」のか「大人の社会が悪い」のかいった不毛な責任のなすりあいが始まるだろう。そのときに「偏差値教育」とか「受験のストレス」とかいうすりきれた言葉でなにごとかを説明しようとする識者がいるかもしれない。せめてそれだけはやめてほしいと思う。 はっきり言っておくが、中学生が暴力的な行動に出るのは「偏差値教育」や「受験のストレス」

    bartleby0911
    bartleby0911 2009/01/06
    生徒たちが「立場上採用している従順で注意深い態度」を教師に対する人格的恭順のしるしだと取り違える誤りと、そもそも学校教育に何も期待していない生徒の無気力な態度を教師に対する人格的反抗だととり違える誤り