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ブックマーク / hyohakumin.hatenablog.com (3)

  • 嫌いな人と付き合う必要はないという件〈再掲〉 - 希望の舎―再生編ー

    僕たちは「好き嫌いを言うな」と幼少の頃から教えられる。 べ物の好き嫌い、人の好き嫌い、いずれも好ましくないこととされている。 好き嫌いを言うことが単なる我儘とされる社会は何となく息苦しく感じられる。 初出 2017/9/28 人との付き合いは厄介なものである。 相性が悪い人もいるし当然に好き嫌いもある。 真っ当な社会人ならば、特にサラリーマンならば好ましく思わない人とも付き合っていかなければならない。 人はひとりでは生きていくことができない。自分以外の人たちと色々と関わり合ってしか生きていくことができない。有史以来人間という生き物に課せられた十字架、それが人付き合いというものである。 僕がいやだなあと思う言説は「嫌な人と付き合うことで成長し人格の陶冶がなされる」といった類のものである。あるいは嫌な人とも付き合えるのはその人の器量が大きいことの証であるといった類の物言いも嫌である。 この手

    嫌いな人と付き合う必要はないという件〈再掲〉 - 希望の舎―再生編ー
  • 「言葉にできないこと」は山ほどある、という件 - 希望の舎―再生編ー

    ヒトという種がこれほど進化し繁栄を謳歌できるのは言葉を身に付けたからだと言われている。 コミュニケーションの手段は幾つもあるが、言葉がその主たるものであることは確かである。言葉の持つ力は大きなものだ。 ところが、言葉は人の思考をすべて表せるわけではない。この社会で起きている出来事をすべて的確に表現できない。言葉の持つ力には限界がある。 この世には言葉で言い表せないことが沢山ある、ということだ。 当然と言えば当然のことだけれども、僕たちはしばしば言葉の持つ力を過大評価する。自分の思っていることはすべて言葉にできる、この社会の姿を言葉で説明できると思い込んでしまう。 恋愛において、時としてそれが不毛なものに感じられたり、ディスコミュニケーションが生じるのは言葉に過剰に寄り掛かっているからである。 自分の思いが言葉にすればそれが陳腐なものと化してしまうことは多くの人たちが経験していると思う。自分

    「言葉にできないこと」は山ほどある、という件 - 希望の舎―再生編ー
  • 「ニート」や「ひきこもり」はこの社会が変わりつつあることの表象だという件 - 希望の舎―再生編ー

    ニートひきこもりとなる人たちが増加していることは社会問題だと捉える向きがある。 同時に個人の資質の問題だとする言説も多い。コミュニケーション能力の欠如だとか精神疾患によって表れた行動だとする。 いずれにしても現代社会が生んだ社会病理だという見方が大勢を占めている。 ニートひきこもりが顕在化したのは社会が豊かになったことの顕れである。 昔から働かない人やフラフラとして生活が定まらない人は一定数存在していた。夏目漱石の『それから』の主人公は「高等遊民」を気取っていた。今で言うなら立派なニートである。生家が裕福で働かなくても生きていけたというだけの話である。 社会全体が物質的に豊かとなれば、働かなくても何とか生きていける人たちが増えてくるのは自明のことである。 ニートひきこもりが「社会問題」とみなされるのはその社会を覆っている労働観をはじめとする価値観によって決せられているだけのことである

    「ニート」や「ひきこもり」はこの社会が変わりつつあることの表象だという件 - 希望の舎―再生編ー
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